『奇跡』

奇跡 [Blu-ray]

奇跡 [Blu-ray]

正月の深夜にローカル局の地上波でやってたのを録画。

一言でまとめるならば、「どうしようもない世界をどうしようもないまま肯定する」といったところか。その直接のきっかけになったのは、「スタンド・バイ・ミー」なんかと比べると冒険というにはあまりにささやかすぎる一両日なんだけれど、是枝監督らしい細やかさで進んでいく様子には、随所で泣けて泣けてしょうがなかった。

主人公は「まえだまえだ」兄弟。どちらかというと兄がメイン。「ゴーイングマイホーム」よりもずっとわかりやすく、家庭は壊れていて、兄は母の鹿児島の実家に、弟はバンドマンの父と福岡に、と別れて住んでいる。母は大塚寧々、父はオダギリジョーで、そのほか祖父母が橋爪功樹木希林、福岡の弟の友だちの母に夏川結衣、学校の先生に阿部寛長澤まさみなど、豪華かつ実力ある役者たちが次々に登場するが、大人はあくまでも背景で、徹底して子どもの目線で描かれる映画である。その「子ども目線」が本当に泣かせる。

かといって、是枝の手による作品だから、子どものけなげさが両親を歩み寄らせるようなことはない。そもそも、子どもたち自身を泣かせないのが本当にすばらしい。子どもらは「お父さん/お母さんがいなくて寂しい」とか、「家族同然だった犬が死んじゃった」とか「友だちとはぐれちゃった/迷惑かけちゃった」と言って泣いたりわめいたりしないのだ。

ただ、兄は現状を受け容れていない。その象徴が、洗濯物にまとわりつき、部屋の中に侵入し、登校する自分の体にも降り積もる桜島の灰に対しての「意味わからん」という口癖。ひねくれきっているのではなく、ごはんはモリモリ食べるし、大人とも友だちとも普通に喋る、祖父のかるかん作りを手伝ったりもするのだが、心の中には常に「こんな日々が続いていいわけがない」と思っている。

彼は、「間もなく開通する九州新幹線の一番列車がすれ違うときに願い事を叫べば叶う」という都市伝説に懸けるべく、福岡の弟を誘って、すれ違い地点の熊本で落ち合うことにする。

旅費を捻出するためにも、一緒に行く友だちと3人して早退するためにも、弟チームと落ち合ってからも、小さなすったもんだがある。自分も友だちと来ておいて、弟には「一人じゃないのかよ」と言うなど、兄は当初、あくまで「願い」にこだわっている。

彼の願いは「家族がまた一緒に暮らせるようになること」。そのために、「桜島の大噴火」を願うのだ。そうすれば周辺には人が住めなくなる、そうすればまた両親とともに家族4人で暮らせるようになるから。

(これは九州新幹線開通を記念して作られた映画である。九州新幹線の一番電車が出る=開通の日は、2011年3月12日。その前日に彼らは家を出る。もちろん映画はその日のはるか前に作られたのだが、現実とのリンクについて是枝がインタビューに応えて語っているページを発見。 http://www.outsideintokyo.jp/j/interview/koreedahirokazu/index.html

事前に「そんなこと(大噴火)になったら俺たちどうしたらいいの」と友だちが問うと、「・・・がんばって逃げて」(だったっけ?)。兄にとって現状はあくまで仮住まいだから、福岡に馴染んで楽しくやっているらしい弟も、一向に母を迎えに来ようとしない父も、祖父が作る鹿児島銘菓・かるかん饅頭のうすぼんやりした味も、そして桜島の灰も、すべてが苛立たしい。

けれど念願かなって一番列車(鹿児島からの「さくら」と福岡からの「つばめ」)がすれ違う瞬間、願い事を絶叫する友人たちをよそに、兄は口をつぐむのだ。ホームで、弟だけにこっそり告げる。「願い事言わんかった。家族より世界を選んでしまった」。

願いを唱えるべき瞬間、兄の描いた桜島が爆発すると、柔らかなギターの音色のみをバックに、数秒ずつ、様々な映像が静止画で提示される。ポテチの袋の底のカスや、幼い日の写真など、兄弟の共有する思い出だけではなくて、今の小学校の体操服や、フラを踊る祖母の手、父のバンドが最近発表したインディーズ盤のジャケット、担任の逞しい腕が自分の肩に手を置く瞬間、友だちの犬の亡骸(その小さな死はこの旅に伴われている)、昨夜老夫婦にごちそうになった親子丼、きのう道すがら見たコスモス畑、うろこ雲も眩しい青空、駅で見た見知らぬ仲良し4人家族など…。

それら「世界」のすべてが、自分の願いと引き換えにすべて失われることを惜しんだということか。よく見ると、前夜、弟とふたりで会話するあたりから、兄の様子は少し変化してきていた。頑なさが消えて、何かを悩んでいるような。

弟は笑って頷き、実は自分も(兄と同じ願いではなく)違うことを願った、と言う。それは「父ちゃんのバンドがうまくいきますように」。この子は始めからずっと福岡での「今」を楽しんでいる。夢で、両親の激しい喧嘩を思い出す場面や「楽しくなるように努力してんねん」と言うセリフもあったが、基本的に、その楽しみ方には屈託がない。別れた母を恋しがったり恨んだりする様子もなく、庭に母の好きなソラマメを植えて、無邪気に「収穫したら送るから」と言って電話口の母を泣かせたりする(私も号泣)。

兄と弟は方法は違えど、互いに世界を許容した。

世界。その言葉を最初に発したのは兄弟の父(オダギリジョー)で、これがまた、不甲斐ないけど憎めない、憎めないけど不甲斐ない男。意味なんてあるのかないのか…な会話から出てきた言葉なのである。電話口で焦れた様子を見せる鹿児島の我が子に対して、「父ちゃんはおまえには、自分の生活より大事なものをもてる男になってほしい。たとえば音楽とか」それでおまえ家族をダメにしてるやん、と映画の観客全員が心の中でツッコむ。「世界とか」唐突なセリフに、間髪入れず、世界ってなんやねん、とツッコむ兄。黙っている父の微笑は電話口の兄には見えない。「そのうちわかるよ」「そのうちって、いつや」。

兄との年齢差よりもずっと幼いような弟は、これまで「仕分けってなんや」「インディーズって?」とわからないことを尋ねてきたのと同じように、福岡に帰宅すると、父に「世界って何?」と聞く。けげんな顔をして考えたあげく「駅前のパチンコ屋やろ」と応える父。「それは新世界やろ」笑ってツッコむ息子。あのときの「世界」が、この父の奈辺から出た言葉なのか、説明はされない。ただの口から出まかせかもしれないし、深層心理がふと表出したのかも。

ただひとつ言えるのは、その言葉は兄の心のどこかに残っていたということ。兄が思った「世界」は、大上段なものじゃなかった。目に見える、手の届く範囲の世界、むしろそれは「自分の生活」そのもの。けれどそのささやかなすべてを大事に思った。そして彼らは少しの時間でもどんどん背が伸びて、成長してゆく。来年は中学生だし、うすぼんやりしたかるかん饅頭の味もクセになってゆく。世界はきっと広がってゆく。

映画のタイトルになっている「奇跡」って、何だったのか。ほかの子たちが叫んだ願い事も、すべて、かないそうになかったり、あるいは努力次第では割とかないそうだったり(絵が上手にとか)、とにかく成就するか否かにかかわらず「奇跡」とは程遠いものだったように思う。当初、「サチ先生(長澤まさみだ。小さくても男って奴は…w)と結婚したい」と言ってた子が、その場になると「父ちゃんパチンコやめてー!」と叫んでいたのにはぐっときた。

奇跡なんてめったに起こるもんじゃないから奇跡だというのだ。けれど作品の中では大小いくつかの奇跡が起こった気もする。あとで振り返れば「あれは奇跡だった」と思うような、なんてことない瞬間が、誰に人生にもある気がする。奇跡のようなものは、日常の、私たちの「世界」のそこここにちりばめられている気もする。この映画の英題は「I wish」なのだという。