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『ごめんね青春!』 第8話 クドカン最新の、そして普遍のジェンダー論・親子論

ドラマ

あまちゃん」と同じように、
(アキの母に小泉今日子という、かつてポップアイコンだった偉大な中年をもってきて、彼女のイメージを存分に引用しながら、思いきって中年のための物語を書いたんじゃないかなと想像する。当時の感想→ http://d.hatena.ne.jp/emitemit/20131002
「ごめんね青春!」は、いま青春まっさかりの高校生たちを舞台中央に据えながら、実は、とっくに「青春期」を終えた大人たちが、自分の、また周囲の青春時代の心残り…それが現在に至る欠落感や歪さに繋がっている…を埋め合わせ、前に進んでいく物語だ。

だから性同一性障害トランスジェンダー、という言葉も劇中で使われた)に悩む男子高校生コスメが前面に出た今回も、彼の苦しみとともに、いやそれ以上に、彼の父親に描写が割かれる。

息子の異常(として父の目には映る)に気づいたとき、はじめ父は衝撃を受け、取り乱し、怒り狂って、女子の制服を着る息子を頭ごなしに叱りつけ、教師たちとの対話も拒む。けれど閉じこもった家の中で、実はトランスジェンダーに関する書籍を100冊も読み、それでも理解できずに、衝動で女装をしたままスーパーに買い物行って白眼視された経験から、「イヤイヤながら男の格好をしていた息子はこういう苦しみを味わってきたのか」と悟る。

津田寛治の打ちひしがれた女装姿の異様さ、そのビジュアルもすごければ、「本100冊読んでもわからなかったけどマックスバリューに行ったらわかりましたよ」という固有名詞混じりのセリフもクドカンらしいリアリスティックとインパクト。固有名詞を出された当事者さん、今回は怒らないでしょうね(笑)。ま、個人的には、これで見てる人が「本100冊読むなんてムダだ」って捉えちゃったらヤだな、って思うんだけど。

ともあれ、マックスバリューで息子の状況が理解できても、なお父親は苦しむ…いや、状況が理解できたからこそ、新たな苦悩が生まれたんだと思う。自分は18年間、誠心誠意、息子を愛してきた。出産に立ち会い、一緒に風呂に入り、キャッチボールをし…それらが愛情を表現する正しい行動であると、親子の絆を育む歴史だと信じてきた。

息子のトランスジェンダーと向き合うのは、それらすべてが覆されることなのだ。息子の本質に気づかず、まして自ら「良き息子」を演じなければらない苦痛を与え続けてきた事実を受け容れるのは、あまりにしんどい。

トランスジェンダーについて、様々な性的マイノリティが登場する「ロッキーホラーショー」と、日本の夏の定番(?)「稲川淳二の怪奇ホラーショー」とのDVDの中身の入れ替わりに例えて説明してみせるのもまた、クドカンらしく小憎らしいほどの技巧なのだけれど、そこでからっぽの「ロッキーホラーショー」のケースを手に取った父親に「こっちの中身はどこに行ったんですか…」と言わせることによって、彼が疑いもなく信じてきて、そして今、失ったものに拘泥せずにいられない心情を表現したのには、巧さを感じるのを通り越して、ちょっと鳥肌立った。ツダカンのエッジの効いた演技も相まって、テレビドラマの文学性を感じた。

結局、父親は、「自分が信じてきたもの、こうあってほしいと願うもの」よりも、息子の苦しみに寄り添うことを選び、息子に謝る。謝罪と共に、「今まで良い息子を演じてくれてありがとう」というセリフを付けたのは、適当な「場面の膨らませ」ではなくて、あまりに長い時間の互いの苦しみを真に昇華させるのは、「ごめんね」よりも「ありがとう」なのだというクドカンの意思なんだと思った。

このドラマのタイトルは「ごめんね青春!」で、登場人物たちはラジオ番組を通じてさまざまな「ごめんね」を告白する。そうやってケリをつけたあと、新たに踏み出す一歩が、彼ら親子にとっては「ありがとう」なんじゃないかな。父の18年間の所業を恨み、責める気がない以上、父に謝られるのは息子もつらい。「ありがとう」と言われたほうが、きっと楽になれる。

さらに、涙で笑顔を作って父親が続けた、「18過ぎたら男も女も関係ない。どのみち親には寄り付かなくなるんだから」というセリフは、これが、「トランスジェンダー」という少数派の案件ではあるけれど、同時に「親離れ、子離れ」の通過儀礼の一例であると表したかったんじゃないかと。

親は子どもを溺愛するものであり、子どもが幼いときは、自分が我が子のことを一番よくわかっていると思い、知らず知らずのうちに自分の理想を託しているが、そういう時代にはいつか必ず終わりがくるものなのだ。「そんなことないよ、パパが大好きだよ」とは、一見、親離れをしていないようだが、実は、すでに自分の足で歩き始めているからこそ言える、優しさといたわりのセリフだと思う。

・・・というわけで息子コスメは女子の制服着用も認められ、自分の「心の性」で学校生活を送れることになるのだが、深く考えなくても彼のこれからの道が安穏としたものじゃないのは自明だ。就職、恋愛、社会生活・・・。学校の仲間たちは、コスメのトランスジェンダーの告白を苦もなく受け止め、違和感なく従来の付き合いを続けるし、教師もそれを後押しするのだが、それは、学校が社会通念から自由でいられる場所だからともいえる。

けれど、ドラマがコスメの今後の「イバラの道」に(とりあえず)触れなかったのは、そこに目をつぶったのではなくて、「行く手にさまざまな困難があろうとも、この親子・仲間たちの理解が、きっと彼(や周りの人々)の支えになるんだ」というメッセージだったんじゃないだろうか? 

なーんて都合よく解釈しちゃうぐらいには、クドカン渾身のジェンダー論、そしてそこに留まらない普遍性を意図して書かれた親子論、成長譚として受け止めた次第であります。

平助の「大声で恫喝する男らしいキャラ」を待ち望んで煽るりさ、「東京に馴染んでるふう」を演じた中井さん、「こっち(DJ)が本業。校長がカバ焼き三太郎なんじゃなくて、カバ焼き三太郎が校長なんだ」と述べた三宮校長など、今回も「キャラクターを演じ、演じられる現代人」あれこれ。

ついに祐子が登場! ケータイの普及によって、恋愛ドラマに必須の「すれ違い」の作劇が難しくなった現代ですが、クドカンはラジオという昔ながらのツールを使ってそれをやってみせた。矢も楯もたまらずラジオ局に走った平助は、祐子の「今、気になっているのは平助」という告白を聞いてないんですよね。

波瑠って私にとってA-stuidoの(誰がやっても同じような)アシスタントとしての印象しかなかったんだけど、今回ラストの登場では、演出もあるんだろうけど、からっぽな、不気味な雰囲気を醸し出していて、「おっ」と思いました。だけどクドカンのことだから、彼女についても一皮剥いて人間くさーい面を描いていくんじゃないかと思う。