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『八重の桜』 第37話「過激な転校生」

大河ドラマ

襄は早速、八重との寝室にベッドを取り寄せる。生まれて初めて見るベッドをいぶかしむ八重だったが、襄に勧められるがまま横たわる。翌朝、熟睡から目覚めた八重は寝心地の良さに感動。ベッドについて「良いものは良い」と納得する。

今回の公式あらすじの序盤、これですよ。これが、どーやったら面白い大河ドラマになると?! …と思ってたんですが、あれー? 今週なんか面白かった。45分が、そうね、先週の倍は早く感じました。ハードル低くして見てたから、ってわけ(だけ)じゃないと思うの。

ベッドのくだりも完全にスイーツ的ネタフリではあるんだけど、頑健な八重に蹴落とされる蒲柳の質のジョー先生があまりにかわいすぎたんでOK! てかジョー先生のネグリジェは誰が何と言おうと正義。由美かおるの入浴的に、半沢直樹の倍返し(口だけ)的に、「明日も見てくれるかな? いいともー!」的に、やえさく京都編のお約束にしましょう。そうしましょう(真顔)。

しかし、まだ帯すらゆるんでない状態で夫の隣に横たわってドギマギしてる八重さんってなんなの。処女か。カマトトか(カマトトって死語ですね)。人前でハグだのチューだのするのに抵抗があるのは当時の人間として当然でも(ほっぺにチュ、を目撃したおっかさま・時栄・みねの三者三様のびっくり顔がよかった)、結婚歴ありの三十路の女が、夫とふたりきりの寝室で何を恥ずかしがることがあるのかね。ちょっとこーゆー描写は、わたし的に、いただけませんね(単に趣味じゃないってことです)。

襄はね、「八重さん…あなたが妻で良かった…」とかなんとか言ったあとで、どさくさにまぎれて(ってこたぁない、夫婦だからw)寝技に持ち込んだのだろうと了解しております。だって八重さんの、同志社での、あの堂々たるっていうか、ふてぶてしい鵺っぷりは、「時には私の前を歩いてほしい」なんて甘い囁きだけじゃ生まれないでしょ。完全に、愛されてる女の自信がみなぎってるでしょ。大人の女が愛されてるって実感するってことはやっぱり心身ともに…でしょ。

と、妄想爆発してみる。や、本当のところ、尚八重だけじゃなく、ジョー八重にもセックスの匂いはほとんどしません。でも、ジョー八重は、あると思って見るとそれなりに納得できるもんがありますし、夫婦である以上、(少なくとも新婚なんだし)あるという気配がなければ嘘だろ、と思うんです。私は。

ちなみに、襄先生は「私を平気で叱るあなたは日本人女性からかけ離れている」と絶賛ですが、実際は、別に封建時代でも、夫を平気で叱る妻はいくらでもいたと思いますね。そら人前ではつくろうにしても。襄はアメリカ時代が長かったんで日本の夫婦の機微をご存じない。藤沢周平の小説を襄におすすめしたいですね、強い嫁はいっぱい出てきますよ。

でね、今回なにが良かったかというと、熊本バンドですよ。どーせ、悪い意味での朝ドラ的学園ドラマになるんだろうな…といじいじいじけながら見始めたら、意外によかったの。殺伐としてて。だから、今回のサブタイトルは、ストレートに「熊本バンド」で良かったと思うのよ。わけわかんない固有名詞や名称を自分のモノにできるのが歴史を知る楽しさのひとつでしょ? それじゃ一般には何の引きもないっていうんなら、「熊本バンド登場!」とか、「激烈!熊本バンド」とか、「熊本バンドと新島鵺と襄」とかでもよかったからさ〜。え? 下手にそんな名詞使ったら、「バンドっていうのにギターもベースもいないじゃないか」ってクレームが来るのが怖かったの?(冗談じゃなくてホントにいそうだ、そういうクレーマー。)

熊本バンドの何が良かったかっつーと、全員かわいい。や、ぼっさぼさなのも、おっさんくさいのも、デカメガネもいるけど、全員そろうとなんかめごい。いや〜これはうまいことやったもんですキャスティング

去年も、清盛の弟やら息子やらの盛盛オールスターズが、役といい役者といい知名度的には地味ながら、みんなそれぞれいい味出してたもんですが、今年もええです。あの、小崎弘道を演じてる子が、去年の窪田くんばりに活躍…するのはドラマの流れ的に無理だと思いますが、きらっときらめいてましたぞ! 中村蒼くんの徳富蘇峰は…徳富蘇峰も若いころはかわいかったってことでww 

や、かわいいだけじゃないんですよ。つか、憎々しいですよ。それが良い〜。熊本バンドが出てきてくれたおかげで、ここ数回、なんとなくモヤモヤしてた部分のいくつかが霧が晴れるようにスッキリした。

ひとつ、耶蘇が嫌われる理由がよくわかった(笑)。あんな、傲慢で、排他的で、創世記だの何だの謎の電波を受信したかのようにぶつぶつ唱える連中、そら、イヤやわ、と。授業中、先生の問いかけに、一糸乱れずザッと人差し指を立てた挙手(挙指?)、気持ち悪さが伝わってきて良かったよね〜。あと、当方福岡人ですが、熊本弁が、みんななかなか良かった。あんまり違和感なかった。

ふたつ、「聖書も熊本バンドもよくわからんけど、良いと思えるところは受け容れる、それでいいじゃないか」という八重の言葉。教義に首をかしげていた描写はあったのに、結婚と同時にあっさり受洗しちゃったのでモヤってたけど、そーゆーことだったのね、と。結局、信頼する同志・襄が信仰厚いから、自分も同道する、ということなんだよね。そのスタンスは、下手に「キリスト教はすばらしい」と深く開眼する展開よりも現実的で、腑に落ちると思えた。てか、実際、ジョー先生は婦女子を次々に受洗させておかしくないレベルwww

みっつ、新島夫妻の小童(こわっぱ)どもへの対峙の仕方が、先週のビューティフルドリーマー合唱やら聖書で英語を…のトンチやらより、ずっと説得力があった。一年生教師で、教えるスキルはまだまだこれからな襄先生。けれど一途で一生懸命。生徒たちを上から押さえつけて制御しようとしない。熊本バンドの要望書に対しオロオロし、ポロポロと涙を流しつつも、成績で生徒を辞めさせることはしない、と断固宣言し、教育に対する信念を語る。

いわく、心を育てたいのだと。日本のために奉仕する青年、国を愛する青年を。国とは国家ではない。国とはpeople。人々のこと。国を愛する心とは自分を愛するように目の前にいる他者を愛すること。それが、「自分自身を愛するように汝の隣人を愛せよ」である。

戦で傷ついた人々の心を癒し、照らし、新しい国家の良心となるような青年を育てたい。創立前から、いや、帰国前からの襄の志が少しもブレることなく発露されて、とても気持ち良かった。これより前、授業中にも食前の祈りでも、熊本バンドの面々の語学に優れ教義に通じていることが描写されていて、彼らの表面的な理解とのわかりやすい対比になっていたし、それを理論ではなく、情でもなく、志で訴えたところに、襄先生の、伝道師として、また教育者としてのすばらしさが感じられた。きっと要望書をめぐるこれらのやりとりは史料にもとづくものだよね。

カトリックとかプロテスタントとかの厳密な違いはおいといて、キリスト教って一神教なので、やはりどこか排他性とか、歴史的には政教分離とは程遠い政治色の濃いイメージがあって、一般視聴者としてもちょっと警戒しちゃうところがあるんだけど、ジョー先生の志の実践は、彼のような教育者が明治の日本に大きく貢献した「歴史」を感じさせて、大河してました。

八重さんも強心臓ぶりを発揮して堂々と意見を述べたりもするんだけど、それは「おなごのくせして」と、まったく受け入れられず(襄と同じキリスト教信者とはいっても、この男尊女卑ぶり…さすが“肥後もっこす”どもめww)、それでも逆上せず、腐らず、余裕の笑顔で、自ら「新島鵺です」なんで茶目っ気もたっぷり。目ざとく風邪ひいてる生徒を見つけたり、夜なべして半纏縫ったりの搦め手も使う。大人になったなー、愛されている大人の女の余裕だなあ、と思います。

生徒が、世間がなんと言おうと、襄という同志がいる限り、嫌われてもかまわないし、みずからが表に出ず影で夫を支えることも厭わないんですよね。八重は、風邪薬や新聞や半纏で、くまモンたちを籠絡したんじゃないと思います。八重は何かの決め手をつくってはいない。ただ、襄の志や情熱とともに、八重の気配りや愛情、堂々とした態度が、彼らの凝り固まった心を少しずつ氷解させていくのだと思います。

人は“憑きものが落ちたように”変わる瞬間もあるけど、いくつもの出来事があり長い時間をかけて相手の気持ちを絶えず感じることで、だんだん、相手を信頼し、感化されていくことのほうが多いはず。「北風と太陽」でいう「太陽」サイドなんですね、襄八重夫婦は。今回はそんな感じがして、スイーツ色が押さえられていたように思います。

ちなみに、「私の前を歩く妻」も「国とは人々」も、尚之助が口にしたフレーズですよね。そこで尚之助の回想シーンとかを出さなかった演出、良かったと思います。八重さんはちゃんと思い出していたし、私たちも、尚さまを偲ぶ気持ちになりましたよね。

そして、「私の前を歩く妻」を重荷に思わないぐらい八重は成長しているし、「国とは人々」という言葉が力をもって人々に届き始めるぐらい、時代は動いているなとも感じました。そういう意味で、ドラマの尚さまは、象山塾で学ぶなどして(これ自体、創作なんでしょうが)先進的な思想を受け容れる人間的素地があったからステキだったんだけれど、時代を先取りしすぎる悲劇…を体現した存在でもあったのだな、とあらためて思いました。

ということで、面白く見たんですけど、不満はなきにしもあらずです。つーかあります。尺の問題等は承知しつつもここからぐちぐち書くんで、悪しからず。

まず、来週西南戦争なのに西郷も大久保も出ないのか、ってOPクレジット見たとき軽く絶望したよね。まあ、これは、本編見ると、ドラマ的に会津人のほうに重きをおいたってことなんだろうな、西南戦争=西郷ってのは常識レベルだから、直前に説明しなくてもわかるよね?ってことなんだろうな、と思えないこともない。ちなみにスッカスカのトメグループには中村獅童が入ってました。まあいいけどさ…。だから不動の大トメにあんつぁまを据えろと何度いったら(ry

西南戦争という武士の最後の反乱の萌芽は、山川浩を中心に描かれました。これはこれでありだったと思います。竹村某が「与七郎…」と呼んだのにもちょっとぐっときました。幼名を呼ぶってことはきっと幼なじみ、什のおきての仲間だったのでしょうね。でも、与七郎時代も什の掟もかなり昔の話なんで、途中から見てる人とか、ピンとこなかっただろうな…と思うと、もったいないですね。なんかもうちょっと「幼なじみ設定」の説明があってもよかったのかなと思いました。ドラマ上で幼なじみ描写の積み重ねがあれば一番よかったんでしょうが。

詳しい説明はなくとも、「共犯にもなれなかった」という浩の悲しみは何となく胸を打つ雰囲気があってよかったと思いますが、やはり山川家まわりはもうちょっとクローズアップしてきてほしかったですね、これまでに。「薩長の手先」というのが、浩にとってもっとも屈辱的で、かつての同士に言われるものとしてもっとも悲しい言葉であることは容易に想像がつくのですが、実際、「薩長の手先と見えるような生き方」を選んでいるそのわけを、もっと描いてほしかった。家に若い会津人たちを多く寄宿させている描写などあったけれど、「生き残っている者の苦悩(あるいは希望でもいい)」をひしひしと感じさせるにはやはり足りないと思われてならない。尺の問題プラス役者のスケジュールの都合もあったのかもしらんけど。

あ、勝地くんの健次郎が出てたけど、前髪クネ男は脳裏にチラつく程度で終わって、ホッとしました。

で、山川家まわりを削るならば、なおさら、同志社および熊本バンドと、西郷の私学校および不平士族とをリンクさせ、対比させて描いてほしかったと思うんです。

熊本バンドが、あんなボロボロのありさまで、熊本くんだりから京都まで来て、目の色変えて、人を追い落とす勢いで勉強してるのは、人の信心の篤さ薄さをいちいち言いつのる料簡の狭さは、なんなんだ、って話です。

金森の母親が遭った迫害について、また廃刀令について、本編でチラと触れていたけど、本質はそのまた先にあると思うんです。つまり熊本バンドも、各地で反乱を起こしている不平士族たちも、同じく新しく移り変わる時代の異分子なんですよね。熊本バンドの面々がみんな武士出身なのかどーかは浅学にして知らないんですけど、明治になって、俸禄を失った士族たちは、薩長土肥の一握りの人間以外、食い詰める者が多数だったわけですよね。そこへ加えて、特権階級であるというシンボル、精神的よりどころであった「刀」すらも奪われてしまった。だから彼らの一部は新政府に対して反乱を起こす。

一方で、新しい世は、とりあえず四民平等。学問を修めることによって職に就く道もある。あるいは信仰という形而上的なものに傾倒することによって生きようとする道もある。けれど一般から見れば彼らは異分子であり、迫害される。迫害されればされるほど、彼らは必死に、学問や信仰といった道にすがるしかない。熊本バンドは、特権階級の鼻持ちならないエリートではなく、「そうするしかなく」、餓えるように、渇望するように、学んでいたわけだと思う(たぶん)。

不平士族にも熊本バンドにも、根っこには、同じ時代背景があったと思うんです。で、不平士族は「枯葉が散らねば新芽は出ない」と思い定めた西郷さんに率いられて滅びてゆく。熊本バンドは、同じく暗いところでくすぶっていたけれど、その尖鋭的・排他的思想を、陽だまりのようなジョー先生に導かれることによって氷解させられ、彼ら自身が新しい時代の教育を担っていく。そんなふうな描き方だったら、同志社物語は、時代のうねりを反映して、明治新政府のあれこれがハショられても、押しも押されぬ大河ドラマとして骨太く見られたと思うんです。

来週の西南戦争は、一話しかないものの、西郷さんはじめ、みんなどえりゃーカッコよくきめてるようなので、惜しいなあ…と思うことしきり。あ、神風連〜秋月〜萩の乱あたりが、地図上に点火して終わったのは、むべなるかなと思います。ていうか、視覚的にもナレーションも効果的で、玉鉄のセリフで終わった佐賀の乱より、印象的だったんじゃないでしょうか。

最後に、あんつぁまの出番が、活躍が、少ない! 先日、ほかの方のブログにお邪魔してコメント欄でやりとりしたとき再確認したんですけど、あんつぁまはこのドラマで、不動の二番手にクレジットされてるわけですよね。大河ドラマの二番手といえば、準主人公って位置づけですよ。つまり八重の桜は「山本兄妹物語」であっておかしくないはずなんですよう!

けど、実際は「え? 覚馬ってこのドラマでそんなに重要人物だったの?」て感じが、イナメナ〜イよね(from あまちゃん…しつこい)。最初の数話でしたよね、「覚馬の桜」してたのは。あと「兄の見取り図」のあんつぁまは超よかったけれども。「管見」も、なし崩し的の完成だったしな…。なんか、会津編はとても丁寧に描かれていたけれど、実は、あれでも、尺が足りなかったのかもしれない、と思う今日この頃で、慄然としてます。