『八重の桜』 第36話「同志の誓い」

なんか・・・。正直に書くしかないから書くけど、「八重の桜」史上でいちばん長く感じた45分でした、今回。えーんえーん。ま、それでも某作品や某作品の2倍くらいは短いけど(毒)。

今週、容保に傾倒されてる方のブログを知って読んだり、それがきっかけで会津編の自分のログも読んだりして、しみじみと浸っていたのでね。はぁ〜。いや、会津編が凄すぎたのよね。描く対象が全然変わってしまったのだからね。てか、会津編みたいなことをずーっと続けろっつーのも登場人物たちに対して鬼畜な話だしね。

しかし。しかしだよー。話が、どうも、矮小化してしまった感はイナメナ〜イよね〜(by ベロニカ@「あまちゃん」。ごめんクセになって…)。それは、将軍とか藩主とか帝とか、主従の交わりみたいなものがなくなった世界だから…てわけでは、必ずしも、ない気がする。

確かに、今は、京という小さな(小さくもないけど)町で、英学校にまつわるエトセトラについて、また、八重の新しいホームについてを描いているのだから、幕府が斃れるか否かと比べたら、ささやかなトピックです。だけど、府政についても、キリスト教に反対する人々や槇村の描き方も、肝心の八重の心情までもが、どうもディテールの積み重ねに乏しく、スープのうわずみと化しているような…。

重きをおかないにしても、新政府のことももうちょっと詳しくやると思ってた。会津編では、会津の八重たちと京(序盤は江戸)の政情とがうまく対比されつつひとつの話として進んでゆくのが見事だと感じていたけれど、ここへきて、たまに挿入される新政府関係はおまけのよう。明治の世になったとはいえ、時代はまだまだ落ち着かず、くすぶりながら、うねっているのに…。

かといって京都方面がじっくり描けているかといえば疑問符がつくわけで、今回の山場である、1.女紅場で最後のあいさつをするも中途で引きずり出される八重と女生徒たちのビューティフル・ドリーマー 2.英学校創設に反対するべく乗り込んでくる人々とそれを押さえる大垣屋 3.聖書を使っての授業に激怒する槇村を建前論で鮮やかに撃破する八重 が、どれも薄っぺらく見えてしまったのは本当に悲しいことでした。ああ、こういうペラッペラな展開に終始する大河も確かに過去にはいくつもありました、けれど我らが「八重の桜」がこうなってしまうとは。

八重が女紅場の仕事に誇りを持っていて生徒たちとも心が通っていた、という描写は確かにこれまでいくつもあったんだけど、そのどれもが表面的なものにとどまっていたように思うんです。もともと覚馬のツテ…というか指示での就職だったし、覚馬は「京での仕事を手伝ってくれ」とも言ったが「これからは学びを武器にしろ」というのが眼目だったと思うんですよね。八重は予算をとりつつ、女生徒たちに夢をもつことの大切さを語りつつ、一方では過去に苦しみつつ、聖書を学んでは首をかしげ… いえ、いろんなことが同時並行であって心の整理のつかないままとりあえず進んでいく、というのは、人生としてはとてもリアルなんだけどね。学ぶ人なのか働く人なのか…現代ふうにいえば社会人院生、に近いのかもしれないけど、なんか、どちらも、割と「こなしてるだけ」って感じに見えてのう(うまく書けない)。

京の人々も、まあ確かに近所にオウムの施設ができたらイヤよね、って感じで反対するのはよくわかるんだけど、幼子が親を慕うように覚馬に心酔しつつ耶蘇については生理的拒否反応を示す…って子どもか! お子ちゃまか! や、かつて槇村が「日本はよちよち歩きの子どもだ」云々と言うセリフがあったので、わざとなのかもしれんけど、見ててあんまりいい気がしない。しかも大垣屋が誠意をもって説明したら(っていうかあの辺の元締めだったからだろうけどw)、しゅんと引っ込むし。まあ松方弘樹の久々に出てきて「俺が言うんだから文句ねぇよな」って強引さに、「しゃあない、松方弘樹だからな」って思える説得力はすばらしいんだけどさ、役者力。

京都の町が戦と帝の東遷で傷ついて打ち捨てられたところから復興していく…というのも、繰り返し同じことがセリフで語られるだけで。ええ、昨年の「新しき都」もそうでしたけどね。石鹸とかレモネードとかで頑張ってるんだろうけど…博覧会とか、こう、もうちょっと実務的なところがいろいろ見たかったのよね。あんつぁまとマッキーの。なんか、何をどう頑張って、成果を出しているのかが、チラ見せぶりにもほどがあって。だいたい、キリスト教への抵抗と同時に、この時期、廃仏毀釈ってのはどーなってたのかね、京都では。いろいろ、焦点を絞るのはわかるんだけど、時代性はなるべく大事にしてほしい…。

槇村も槇村で、建前さえ整えときゃいいんだ、というのは為政者らしい思考で面白いのに、襄を八重にすすめときながら、ふたりの結婚は祝福しながら、あんな意地悪なやり方(授業を中断させてクビにする)をとるたァ、不自然な。英語の授業が始まったとたんに乗り込んでくるとか、ヒマか。ヒマ人か。別室でモニターでも見ていたのか。

twitter見てると、実際の槇村は、聖書は修身の授業でなら使っていいとしていたらしいんですね。けれど強いて聖書を教えるなら学校ではなく教師の自宅で教えろ、と。で、八重が女紅場を解雇になったのは、実際に結婚して(つまり洗礼も受けたあとですよね)から、女紅場でキリスト教の教義を(勝手に)教えるようになったからだとか。非常に筋の通った話ではないですか。ずいぶん、主人公サイドに都合よく歪曲したもんだなと。まあわざわざ主人公を貶めるエピソードをやるこたぁないし、女紅場を解雇されるくだりに触れないわけにはいかんので苦しいとこなんだろうけども…。なんか、巷間伝わる八重さんエピソードを思い浮かべると、これからもいろいろしんどそうだなーと思う…。

ああ、ネガチブな感想ばかりになってしまっとる。すみません。良かったのは…襄先生が安定のかわいさ。しかし襄周辺の背景があまり説明されていないのもあり、またしても「八重の夫イコール王子様」になるんじゃないかっつー多少の危惧が…。なんかこう、「こーゆー造形が好きだよね、女子は? ん? 女子を味方につけないとね!」的なさぁ…。や、穿ちすぎでしょーけども。まあ大河ドラマで話題になる夫婦って、往々にしてリアリティないものですしね、円満夫婦でも、不仲でも

まあ、襄八重の場合、志高くキリスト教的博愛精神にあふれるが、そのぶん現実に疎い襄先生…の用心棒であり騎士(ナイト)なのは八重さんのほうかもしれませんねww 襄先生に困ったことがあると、黒幕(あんつぁま)とアマゾネス八重が出動www

そうそう、あんつぁまといえば、今週は「にこり」「にやり」の顔が多くてわたくしもニンマリ。なんのかんのゆーて今があんつぁまにとっても一番いい時代かもしんねぇな…泣 てか、同志社最初の授業で校長先生よろしく教室の後方に陣取って授業を見守るのはいいが、怒りのマッキーが登場したのち、どの時点で廊下に移動してました?! すわ、テレポーテーションか!と思いましたよ。あと、杉田勇次郎くんはなぜにあんな髪型で登場なのだ。彼にだけ柘植先生が人物デザインについてるのかとwww

えーと、とりとめもなく書いてますが、薩摩。今回びっくりしたのは、西郷と大山の場面で、大山が大根に見えてしまったこと。ちょ、おかしいやろwww でもほんとのこと…。私のモニカびいきもここに極まれり、か(註:別に以前からファンだったわけではありません)。ちょっと考えてみたんだけど、今作の西郷は、薩摩弁がいいのかもしんない。生粋の鹿児島人の方々にはどう聞こえているかわかりませんが、あの乏しい表情と歌うような韻律が、独特の味を作っているような。反町さんの薩摩弁と、なんかかなり違って聞こえるんですよね。吉川さんの薩摩弁の「こなし」はミュージシャンの勘なのかなあ。それと、水球で鍛えた(ことはファンでなくても多くが知る事実w)体のどっしり感ね。もうすぐ見られなくなると思うと悲し〜。

風吹さんがドレスを縫ってもってくるシーンは、こーゆーのは女大河の鉄板だけど私は好きです。八重さんの半生総括、乙でしたwww 八重さんの突飛さもすごいけど、八重と覚馬との母である佐久さんも、歴史的な何かを残した人ではなくとも、賢くて、愛情深い、大きなお母さんだったのだと思います。風吹さんがそういう味をすごくよく感じさせてくれますよね。

怒りのマッキー「建前論で自爆」事件ののち、有名な「ハンサムウーマンの手紙」が紹介されますが、生き方がハンサム…の前段、「彼女は容姿はアレだけど」って部分がしれっと削除されてましたねw ま、しゃーないよねwww かつて白無垢のとき、秋月さんが目をゴシゴシ、ってやって「きれいだ…」的なこと呟いてたし、いくらなんでも綾瀬はるかをブチャイク呼ばわりできないwww あっ、秋月さんのこと思い出した。西南戦争あたりで再登場ないかしら。ユッキーヤもかなり仕事が順調で忙しそうだけれども。

というわけで婚礼は超きれいでしたー! 眼福、眼福。見えていなくてもデレてるあんつぁま萌え〜。足元にいる久栄ちゃんもかわゆすぎる。車代の20銭しかかからなかった、って、ナレーションでもいいから一言加えてほしかったな。なんか、前夫のことが忘れられないって言った舌の根も乾かぬうちに、今週すごい勢いで夫に同道してる八重さんにちょっと違和感をおぼえもするのだが、ふたりには幸せになってほしいものです〜。