『おんな城主直虎』 第10話 「走れ竜宮小僧」

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川名のご隠居様より先に奥山のタガが外れるとは! しかし何という井伊らしさ! …と思ってたら、パタンパタンとすべてがいい方に転がっていったまさかの前半。

直親が終始冷静で、一度も政次を疑ったり、この機に乗じて排そうとしなかったところにぐっときた。しのが直訴に来る前(竜宮小僧さまの働きの前)に、既に状況を見抜き、できるだけ穏便にことをおさめようとしていた名探偵直親。ね? ただの脳筋でもサイコパスでもないってことよ。

(なつさんに涙目で感謝する政次と恐縮するなつさんを見てると・・・この2人、やっぱり弟亡きあと、一緒になるフラグなんじゃないか、昔はそういうこと珍しくなかっただろうしな・・・という目で見てしまう私はなんかヨコシマなんでしょうか。)

しのの「あんな父でも、父は父」のシーンが印象的だった。激情家のしのが身も世もなく泣き崩れる姿が、赤ちゃんを待っているときはめんどくささでしかなかったけど、今、直親の心にお湯をかけて溶かしていったのだ。奥山の骸を見てすぐに冷静な現場検証ができたのは、逃亡生活の9年間でいろんな修羅場を経験してきた証だろうし、それらのとき、いつも父の首との対面が頭に浮かんでも、「いったん、心の外において」きたんだろうなと思う。そうしないと生きられなかった。




鶴も亀も、直満の死で心が凍って、おとわの道も変わって、3人とも無邪気な子供ではいられなくなった。井伊の当主・直盛も死に、その生まれ変わりのように虎松が生まれて、おとわたちが子を育て守る世代になった今、3人の心が通う。3人とも「井伊のために」ことを強く考えている。でも、父が死んだのは悲しいし、幼なじみは信じたいし守りたい、本当はずっとつらかったよね。そういう「受容」が大人になるってことなんだろうなーと思った。一報を聞いた次郎は、無事に「生まれましたか」じゃなくて「父となられましたか」と言ったよね。実際に父になったのは直親だけだけど、次郎も政次も、「親の世代になった」ことの象徴かなと思う。

直親が恩を売るのではなくて、「検地のときの借りは返した」と言うのが、またね~。あのときの自分は失敗だったと、政次を傷つけていたんだとずっと認識してたとこがね。直親は脳筋でもサイコパスでもないってことですよ(再)。しかし!!



妻との仲がうまくいっていて、かわいい子どもを授かって、そういう余裕がある状態での、跪き&「井伊の姫」呼ばわりに、くーーーーーーっ、この天然!!!という感じがした。分娩時に弓をべんべんやってるのは、源氏物語平家物語でよく見る描写で、ゆかしかったですね。



授けられた「虎」の字の強さ高貴さを口々に嘉される赤ちゃんだけど、この場に共にいられない墨染の次郎が、「虎」の字を名乗るのだよねえ・・・と、こういうとこもほんとうに行き届いた脚本ですこと。

で、井伊がえらくうまく落ち着いたなと思ったら今川方面がやばいと。






直親と政次が碁を打つ(将棋だったっけ?)場面があって、政次は「明日にも今川館が焼けるかも」という次郎の言い草こそバッチリ再現できてましたけども、鶴と亀が2人がかりでも、松平元康の「ひとりで無限のバリエーション碁打ち」には叶わないんだろうなーと思いました。