「生きやすさ」、「生きづらさ」の周辺について考えるのこと
幼稚園の出ごとやら、台風による休園やらが続いて、「ふー、やっと今週唯一の、幼稚園時間=私のひとり時間だわ」って日。やりたいことはたくさんあるのに、なぜかふと思いたって連続ツイートしてました。でも、ここのところ、なんとなーく考え続けていたことを、アウトプットすることによってだいぶ整理できた気がして、うん、これはこれで良い時間の使い方だったかな(←ポジティブw)
まぁこのブログで長文を読んでくださってる希少な方々には大したことない量かと思いますが(爆)、30個ぐらい連ツイしたんですよ、Twitterでそんな連続ツイートほんと迷惑ですよね(爆)。フォロー人数の少ない方には、さぞやTL占拠しちゃった状態で申し訳ないことだったんですが、自分の記録にしとこう・・・と、せっせと、ブログに転載するためにログを切り貼りしてたんですね。
そしたら、なんと、数日後、ある方が、この連ツイを心に留めてくださって、まとめサイト「Togetter」にまとめてくださったことが判明。こ、こんなことあるんですねー。すごくびっくりしました。感謝です
それがこちらです →( http://togetter.com/li/691321 )
先週、ふと思いつくままに連続ツイートしたものを、たまたま目に留めてくれた方(フォロワーさんですらない!)が、「読みやすいように」と、まとめてくれました。うれしいです。「生きやすさ、生きづらさの周辺」 URL
んでも、いちお自分でログとったのも残しとこう(笑)。長いんで、たたんどきます。
先週に引き続き、今週も幼稚園関係の出ごとやら、台風での休園やらが続き、金曜日の今日だけが、幼稚園時間=私のひとり時間。やるべきことやりたいことで頭がパンパンよ?!!! と言いながら連ツイしても良かですか?
最近、「生きやすさ」 「生きづらさ」 についてよく考えてる。私には好きなものがたくさんあって、格別に子供好きでもなかったけど、子をもつとかわいいなと思うし、ママ友コミュニティにもそこまでストレスを感じるたちではなく、もちろん環境が恵まれてるのもあるけど「生きやすい」たちだと思う
じゃあ、私の「生きやすさ」はどうやって培われてきたのかな、と考える。「生きやすさ」って本当に大事だと思うんだよね。特に、子どもを育てたり、介護したり、もちろん仕事もそうだろうけど、「別の人格」と深くかかわる生活をしていれば、なおさら。
「小さな一言に傷つく」って誰にでも経験あると思うけど、その逆で、人の「小さな一言や仕草」に、楽しくなったり、感心したり、感動したり、救われたり、「この人も大変なんだな」「つらいんだな」って想像できたり・・・そっちもあるよね。それが、すごく「生きやすさ」につながるように思う。
そういう、「人に対する感受性」「想像力」を、人はどうやって育むものなのかな・・・?と考えると、やっぱ、とどのつまりは「自己肯定」なんだろうな、と思う。愛情をかけられたから、愛情をかける。挨拶をされて気持ちいいから挨拶をする。愛情や感情の、細かな襞の感覚、その表し方を知っていること
子ども時代も、学生時代も、社会人時代も、なんとなく漠然と、地味に生きてきたし、別に何者にもなってないけど、でも、経験してきたことや、人にかけられた情愛が、私の「自己肯定」、ひいては「生きやすさ」につながってるんだろうなーと思う。やっぱり、経験や環境はとても大きい。
かといって、私は決して経済的に楽じゃない家庭で育ったほうで、親は生活のリアルな苦労をしていたと思うし、そのせいで精神的に余裕がないことも多かった、その雰囲気はいつも子ども心に感じ取っていたと思う。愛情もかけられたし、常識的な親だったけど、悪い言霊もたくさんかけられたと思う
そういった親や家庭環境にまつわるイロイロは、やはり私の人格形成に影を落としている部分もあると認識しているのだけれど、でもそういった「影」や「悪い言霊」を振り払おうと格闘してきた歴史も自分にはあって、それで大いに助けられたのが、やっぱり「本」とか「音楽」とか「他人」なんだと思う
親の機嫌がどうだろうと、自分の浮き沈みがどうだろうと、本や音楽は、いつも変わらずそこにある。アイドルはいつもキラキラ輝いてて役者さんは物語の中でどんな人生をも生きる。自分や親の価値観がすべてじゃない、世界は広い、いろんな人がいる。無意識のうちにそういうことを学び取ってきたんだろう
「普通に暮らしてれば自然といろんなことを経験するもので、そんなに深い考えなんて必要ないんじゃないか、普通でいればいい。」と、子育てをする前は思っていたし、まあ今でも究極的にはそう思ってるんだけど、そうやって「普通」に生きてこられたことの有難さも今はすごく感じる。
人は、生まれてくるところは選べない。人生には避けられない不幸もたくさんある。私は幸運にも、30年くらいかけて、徐々に「生きやすさ」を身につけてきたけど、そうじゃない子ども時代を過ごし、大人になった人はどうしたらいいんだろう。その人が我が子に自己肯定感を伝えるにはどうしたら?
そこまで考えると、本当に袋小路。ただ、言えるのは、子どもを救うには、親自身を救わなきゃいけないケースがすごく多いと思うし、「生きづらさ」を少しずつでも軽減させていくには、やっぱり、「人」がそこに健全な形でかかわっていくことが必須だと思う。
ただ、「生きづらさ」を感じている人は、そもそも「人とのかかわり」に抵抗感をもっていたり、自然な信頼感をもてない人が多いはずなので、そういう人に、周囲がどうやってかかわっていくか、というのがすごく難しい問題になってくるんだよね。
となると、やっぱり、カウンセラーとかソーシャルワーカーとか・・・・専門家の出番だね、って話になるんだと思うけど、そういう結論にもっていくことって、いわゆるひとつの「他人事」として処理することのように最近は思えてて。
そりゃ誰だって他人なんてそうそう背負えないし、何ができるのって言われたら答えに窮するんだけどもね。
人と関わるって、当然、楽しくて素敵なことばかりじゃなくて、本気で人と関われば、傷つけあったり、苦しみ合ったりすることもある。だから、容易にはかかわれない部分がある。「捨て猫に1回エサをあげて何になる?飼えないなら優しくするのはかえって罪」みたいな考え方もあるし、一理ある。
今の世の中、「自己責任」って言葉が支配する空気があるし、家族がいたりすると、なおさら「守りに入る」モードになったりもする。それもすごくわかる。でも同時に、「そんなにまでして後生大事に守る自分(たち)って何ほどのもの?」って思う部分もある。
宮崎駿のインタビューで読んだんだけど、「傷は受けるもの」だと。無傷で育つなんてありえない。傷を受けることも与えることもおそれちゃいけない。他人に迷惑をかけないなんて考えはくだらない、人は存在しているだけでお互いに迷惑なもので、迷惑をかけあって生きるものだと認識すべき、と。
なんか宮崎駿の人生を多少なりとも知ってると、「ほんとその通りの生き方だよな」って苦笑しちゃうとこでもあるんだけど、でも、真実でもあるよね。「傷は癒されることはない。堪えられるかどうか。堪えられればそれでいい、それが人間の根本」とも言ってる。
小さな話、たとえば個人でブログをやったりツイッターでつぶやくことだって、発言であり表現。いろんな人が見れば、いろんなとらえ方があって、傷つけてしまうこともありうる。そういうのはすごく怖いし、イヤだ。人を傷つけたくてブログやる人なんて、そうそういない。
でも、(わたし程度のブログや呟きでは大げさな話ですがw) じゃあ、傷つけるかもしれないからやめます、控えます、って姿勢もどうかと思う。そっちに進んでいったのが、テレビやなんかの過剰な「自主規制」だったりする。「あたらず、触らず」な態度。それは物事を「他人事化」するってことでもある
うん、やっぱり、「かかわる、行動する=傷つく、傷つける」であり、 「かかわらない、控える=他人事として処理する」 て部分はあるんだよね。絶対。前者を手放しで推奨することはできないかもしれない。でも後者にも罪はあるって思う。罪というと大げさだけど、後者の空気が醸成するものは大きいよ
んで、「傷に堪えられる強さ」みたいなものも、人生、すごく必要だなって思うんだけど、その強さはどうやって培われるかといえば、やっぱり、「自己肯定感」・・・・みたいな感じで、エンドレスループするんですなw
こういう、「生きづらさ」を感じる人とか、何か月か前のベビーシッター致死事件の母親とか、出産公表後の安藤美姫とかなどなどに、私はすごーく心をもっていかれる傾向にあって、つまり「世の中におけるマイノリティ」に対して私はすごくナーバスなんだと思う。
で、どうしてマイノリティー問題にナーバスかといえば、根っこに、「自分もマイノリティーなんだ」って思いがどこかにあるからなんだろうなー、と。人からは多分そうは見えないんだろうし、私自身、そうは見えなくなりたかったというか、私は「生きやすさ」を意図的に獲得してきた部分もあるんだけど
でも、あるていど「生きやすさ」を身につけてると認識している今も、根っこには、マイノリティーの私がいて、だから、世界のいろいろなマイノリティー問題がすごく気になるし、考えちゃうんだよね。人間にとって、生まれや育ちは、どんな形にせよ、本当に一生かかわる問題ですね。
そしてこの直後、来年の大河『花燃ゆ』の新キャスト発表を受けて、今度はそっちについて嬉々として連ツイするわたくしなのでありました・・・・