長月の七 / TOKYO 2010

●9月某日: 朝7時に起きるとびっくり。TOKYO 2020!!!!! いやあ、まさかと思ったね。こういうときはTwitterを見るのがやっぱり面白くて、私がフォローしているのは200人くらい、その中でもアクティブユーザーはもっと少ないだろうが、それぐらいの数があると、RTも含めて相当いろいろな意見が出てくる、出てくる。ということで、百家争鳴の中、自分のあまり深くもない意見を披歴するのも恥ずかしいんですけれど、私はけっこうぐっとくるもんがありました。希望、という言葉で表すのが近いです。

自分の愛国心は自尊心に近いものだと思っています。やはり、生まれて育ってきた場所、家族や仲間や・・・というのを広げていったときに国ってのがあるなあ、と。それらを愛したい、誇りを持ちたいというのは、理屈ではない素直な気持ちです。行ったことないけどイスタンブールマドリードも魅力的な街だなーってイメージがあります。自分はオリンピックって言われるとまず、「どんなマラソンコースになるだろう?」って想像するんだけど、両国ともにとても面白そうじゃないですか。んで、その中で、日本が選ばれたっていうのは、まあ、ロビー活動とかですね、利権とか報酬とか非常に現実的な話がいろいろあるんでしょうけどね、いろいろ含めて日本が信じられている、希望をもたれている、ってことじゃないかって気がするんですよね。

もちろん日本には問題があります。でも、他の国にも、それぞれ問題がある。みんな、その中で生きていて、その中で希望を見出そうとしているんですよね。あんまり浮かれポンチにもなりたくないですが、熱狂の渦の中で忘れ去られそうな問題を危惧する人が多いのも、それはそれで希望だと思うんです。そういう人が多ければ多いほど、忘れ去られる可能性も低くなる。忘れるか忘れないかっていうのは、政界財界などの意向も大きいけれども、結局は私たち自身に帰する問題でもありますよね。

あと、ひとつになろうと強要されてるような気がして嫌だ…とかいう人がいるのもわかるし、別にみんながみんなで楽しまなくていいと思うんです。でも、これ、紅白歌合戦とか24時間テレビとかもそうなんですけど、たとえば一人暮らしをしている人とか、とても高齢の人とか、その介護に追われている人とか…なにか寂しかったりしんどかったりする人が、「なんとなくみんなとつながれる、自分のことのように一喜一憂できる」って思える、っていう価値を思うんですよね。そういうことに、国の予算を…私たちの税金等をどれくらいまでかけて許容できるのか、というと難しいんですけど…つか、「完全にアンダーコントロールされている」って断言は、「ちょちょちょ嘘だろ、んなこと言っていいんかい」と思いましたけど…