こどもの言語本能

この日(2010-05-13 - moonshine)に書いた子どもの言葉について。

  • A.「おかあさん、プール いるよお」
  • B.「おかあさん、プール で まってるよお」

2歳はじめと思われる男の子が号泣しながら繰り返し発していた言葉。
A.では助詞(プール『に』いる)が省略されているのに対し、B.では助詞(プール『で』まってる)が正しく用いられている。

お母さんと引き離されるというのは、きっとそのときのこの子にとって生きるか死ぬかくらいの大問題。30分ほどの間にA.B.それぞれ50回ずつくらい聞いてしまったように思うのだが、助詞の使い方は統一されていた。

マイクロバスのウインドウ越しに見えるこの子のかわいい泣き顔を見ながら、これだけ大泣きしながらも、何十回でも同じこというんだなー、助詞の使い方もきっぱり同じに・・・・と思っていたのだが、家に帰ってから、

「そうか、考えてみれば大人と同じだな」

と気づいた。大人だって、話し言葉では頻繁に助詞を省略する。でもその省略には一定のルールがあるはずだ。

「おかあさん(は) プール いる」
と言ったとき、省略された助詞は『に』でしかありえないことは、日本語を話す人なら直感的にわかる。いっぽう、
「おかあさん(は) プール まってる」
と言ったならば、ふつう、省略された助詞は『を』だと感じるはずだ。

「プールを待ってる」というのはどういうシチュエーションなのかわかりにくいし、話の脈絡によっては「プール『で』待ってる」という意だと解釈できるかもしれないが、大人が話す場合でも、「プールで待ってる」と言いたいときに『で』は省略しないだろうなーという気がする。

これは理屈で説明できるものではない。感覚だ。国語の文法問題が得意だったか否かに関係ないし、イマドキの言葉を駆使する女子高生に聞いても、昔ならではの博多弁でしか喋らないお年寄りに聞いても、おそらく同じ答えが返ってくるだろう。

それを、この、わずか2歳くらいの、身も世もなく泣き叫んでいる子も、直感的に理解しているのだ。もちろん、こんなこと、親か誰かから教わったはずはない。おそらくまだオムツもはずれていない、自分ひとりで着替えたりもできないような年齢、語彙だって相当少ないだろうに、ちゃんとわかっている。この『で』は省略しないと。

やっぱり、人間には言語に関する本能があるんだな、と、大学で習った「言語獲得生得説」を思い出して悦に入るわたくしである。あー早く自分の子どもで心ゆくまで考察したい。