『福岡町名散歩』 井上精三 葦書房

図書館で借りた本。

福岡町名散歩

福岡町名散歩

奥付より
昭和54年から3年間にわたっての朝日新聞連載をまとめたもの。
作者は明治34年、博多下西町(現・博多区綱場町)の商家に生まれ、西南学院高等学部(現大学)卒業後NHK入社、各地の課長、所長、局長を歴任し昭和31年退職。昭和63年5月死去。

山を切り開いたり海を埋め立てたりしたのでなければ、地名には数百年という歴史があっておかしくない。日本全国どこでもそうだったのだろうが、かつて城下町や商業等で栄えた都市というのは、現在よりもずっと細かな町割がされていた。そのいくつかは今も正式な地名としてとおり、いくつかは通称やバス停の名としてのみ残り、または完全に使われることがなくなって、人々の記憶から消えてゆくものもある。元町、魚町、栄町、馬町というように、往時がしのばれる、日本各地でみられる町名もあれば、珍しかったり難読の町名もある。

この本では福岡・博多のかつての町名を1ページずつ細やかにわかりやすく紹介している。読んでいるだけでとても楽しい! いかんせん膨大な資料で覚えきれないが、できればこの本を手に携えて、あちこちを散歩したいくらいだ。

全編を読んで感じるのは、やはり、今では残っていない町名がとても多いこと。中には因幡町、萬町のように、昭和40年代から福岡に住む私の両親がたまに口にする名もあれば、網屋町、新川町のように、バス停の名としては残っているものもあるが、大半は初めて知る町名だった。

また、福博の町が昭和の戦争でいかに被害にあったかということ。「空襲で全町焼失」「空襲で壊滅」といった記述が圧倒的に多い。天神を貫く昭和通りなど、大きな道路や抜本的な区画整理は一面焼け野原になったあとにできたもので、逆に空襲をまぬがれた地域は、「戦前の町並みを残している」ということになる。ただし、この本が出版されてからすでに25年以上の歳月が経過しているから、現在ではまた違った状況のところも多いのだろう。

福岡市は歴史ある町。大きくわけて、博多は商人の町、福岡は武士の町、その境が那珂川(と中洲)であったことは一般にも良く知られている。

【博多】
戦国時代初めの伝道師ルイス・フロイスの著書「日本史」によると、『九州全体で、博多の町ほど主要かつ裕福なところはひとつもなかった。それは、ここは商人ばかりから成り立っている市制だからである』ということになる。そんな町も相次ぐ戦国の乱で荒廃しきってしまったのを、九州征伐を終えた豊臣秀吉が復興に乗り出した。

秀吉の町割では、すでに対馬小路、奥堂、蓮池、土居、須崎といった、今でも馴染みある町名が見られる。

【福岡】
1600年、関が原の合戦後、黒田長政が名島城(旧城主は小早川秀秋)に入城。新たに福岡城を築く過程について、本には以下のように書かれている。

那珂川の西、那珂郡警固村福崎の地に築城開始。南方の赤坂山を平地まで切り下げ、城内の西北が荒戸山と同じ高さで、本丸より高かったのでこれを低くした。本丸はここにあった警固神社薬院山に移し、はじめから天守閣を置かずに天守台だけとし、おもに名島城の石垣を持ってきて築き上げた。

福岡藩の重臣は主として城内に住み、これに次ぐ3000石から2000石くらいまでの大身の武士は、堀端から東の大名町、天神町の通りに面して住んだ。

中位の武士は荒戸町を中心に、また城の南部の馬場付近には馬術関係者が、薬院や雁林町、養巴町には主として医師が、荒津山の山下には御船方が住むなど、職種によってその場所がおおよそ決まっていた。

春吉と地行には足軽が住み、小姓町、鉄砲町、浪人谷もさむらいの町であった。

これだけで、江戸初期の福岡の様子が目に浮かぶようだ。


以下は、福博に今も残る町名を中心に、本の記述から抜粋。自分の覚書のようなものなので、原文を縮めたり中略しているところもあります。福岡に住む人、むかし住んでいた人、土地勘のある人などは楽しんで読んでもらえるかもしれません。

  • 柳町

現在の博多区下呉服町、石堂川に沿って北に伸びていた町。
慶長のころ、福岡藩那珂川の川口に散在していた娼婦たちを集めて作った集娼地区。明治になって拡張が認められ、500人近くの遊郭の町となったが、九州大学の授業に支障があるとの理由で、那珂郡住吉村(現在の清川)に移転を命ぜられ、移転先を新柳町とした。旧柳町の跡地には大浜小学校が建ち、終戦後、川沿いは一時、闇市場のスラム街となったが、のち整備。

博多でもっとも長い縦町筋で、幕末ごろは戸数100、418メートルの大きな町だった。この町のすぐ北が浜だったころ、対馬藩の倉庫や屋敷があったので町名になった。演劇界・川上音二郎もこの町の出身。

  • 蔵本町

いまの奈良屋町と綱場町にまたがる縦町筋で、明和のころは戸数45軒であった。この町に津(博多)じゅうの米を収納する蔵があり番人を置いたので、江戸時代には蔵本番といった。空襲で全滅し、戦後の区画整理で町の中央部が50メートルの昭和通りとなって中断された。

  • 呉服町

黒田長政とともに博多入りした豪商大賀一族はこの町に居をかまえ、町人格式の最高の地位にあって栄えた。明治末期に電車が開通して博多駅と築港を結ぶ主要道路となり、中央の商社、銀行の支店も進出、一等地になったことも。空襲後もその復興は早く、道は大きく広げられて大博通りとなり、大丸も開店したが、天神の発展に反比例して昔の華やかさはない。大丸も天神に移った。

  • 土居町

むかし、このあたりは港の岸辺で、波よけの土手があったので土居町となったと伝えられている。豪商の町で、鋳物の磯野と深見は群を抜き、江戸時代の初期から昭和の終戦まで盛業を続けた。空襲で全町が消失、戦後の区画整理で上土居町の西側は冷泉公園となって人家は消え、町名変更で土居町の名は消えた。

秀吉は九州征伐のとき、箱崎宮を本陣とし、戦火で廃墟となった博多の町の復興を命じた。明治44年に九大工学部が設立されてから、順次、農、法文、理の学部が開設。明治43年に設立された海辺の水族館は、昭和六年の国道三号の開通で撤去。空襲の被害は受けず。

浄土宗の寺。昭和20年6月19日の福岡大空襲で全町壊滅。焼け跡に仮の寺院を建てたが、のちの南区若久に移転。その跡地に立ったのが、現在のショッパーズプラザ・ダイエーである。この開店はマツヤレディスとともに、天神の人の流れを大きく変えた。

江戸時代は福岡藩上級武士の屋敷町。明治22年には戸数116戸、人口600人の町家町。大正13年、福岡新市庁舎が完成。
空襲の被害を受けたが、終戦後わずか1年足らずで開業した新天町商店街は復興のさきがけとなり、その後開業の西鉄商店街、因幡町商店街は現在、天神コア、東急ビルとなる。

  • 簀子町

町北の海中に大きな石があり、簀子石といったのでこれが町名に。江戸時代は荷物の運搬に人および馬を供給する宿駅だった。明治4年に郵便制度が実施されると、人馬継所は福岡郵便役所に。海辺には藩の年貢米を収納する倉庫があり、廃藩後、その跡地に簀子小学校が開校。市内でもっとも古い小学校のひとつ。兵営に近かった。空襲でほとんど焼失。

  • 萬町

今の西鉄グランドホテル前でカーブを描くところを萬町角といった。元禄3年には民家16戸の町で各種の職業人が住んだので町名に。空襲でほとんど全町焼失。天神かいわいの発展とともににぎやかになり、誰が言い出したか「親不孝通り」と呼ばれている。

貝原益軒の『筑前国風土記』には元禄3年の民家として「家数65軒、染工多く住まう故に紺屋町と云う」とある。その100年後に編纂された『筑前国風土記附録』には、火災その他の原因で染工たちはこの町を離れたとある。純然たる商家町でその職業は雑多、小店が多く、大正末期には醤油、呉服、酒、果物、ガラス、瀬戸物、魚、野菜などあらゆる日用雑貨の店ばかり。空襲をえまぬかれ現在も戦前の姿をとどめた店もあり、商店街としてにぎわっている。

  • 六本松

貝原益軒の『筑前国風土記』には、元禄のころは家もない、毎夜飛火が出る気味悪いところだったとある。東南には、浪人谷、馬屋谷、茶園谷など多くの山ひだがあって、ここに住む身分の低いさむらいの山から出てくる格好が、ひきがえるに似ていたことから、博多のものは「谷わくろう」といった。この人たちは六本松を経て、馬廻門から城内に入った。大正11年に福岡高等学校(現・九大教養部)の開校で、付近に人家が建ち始め、昭和2年、城南線の開通で急速に発展。

  • そのほか、今では消えてしまった町名

(博多部)
千歳町、釜屋町、竪町、鏡町、相生町、萱堂町、廿家町、掛町、寿通り、普賢堂町、鰯町、麹屋町、魚町、北船町、桶屋町、出来町、箔屋町、今熊町、水茶屋・・・
(福岡部)
鍛冶町、薬研町、養巴町、土手町、船津町、船町、雁林町、小烏馬場、林毛町、大円寺町、鉄砲町、枡木屋町・・・