『おんな城主直虎』 最終話 「石を継ぐ者」

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最終回のオープニングテーマを見ると胸いっぱいになります。長編ドラマをずっと見続けてきた醍醐味ですよね。大河ドラマって本当に素晴らしいものですね(2年連続)。

主人公最後の活躍は、自然という明智の子の一人を助けるという、筋を語れば地味でしかない完全創作エピソード。しかも直虎とほぼ同時に万千代が於大の方と共に龍潭寺に到着、さらに織田の武装勢力まで…というご都合主義そのものなんだけど、

めっちゃよかったよ!!!

ものすごいカタルシスと感動の波が、神奈川沖浪裏(by北斎)ばりに私の胸に押し寄せていましたよ。

血縁でもなく、何の義理もないどころか不利益を被るかもしれないのに、毅然として自然を守った。やっと、守ることができた。自然が首桶にならなかった!!

ついにここまで来たんだよ! 徳川の母に対しても織田の武将に対しても怯まなかった。むしろ織田の名を騙って退けるという手を使って見せた(六左たちがもらってきた天目茶碗をこう使うのか! まっこと、「もらえるもんは病気以外、何でももらっとけ!!」と私の中の真田昌幸by草刈正雄が蘇ったよ!!)。

「我がお家のためです」という於大の方は、一貫して「戦国システム」を体現する存在で、彼女はもとより、ここに至っての万千代だって、そうしなければ仕方ないと思い込んでいた。直虎はNOと言った。自分たちのために弱い者を犠牲にするシステムを断ち切った。

「ほら、殺さずとも済んだではないか」という言葉が印象的。直虎は織田や於大の方に真正面からご高説をぶつとかお涙頂戴するとかして自然を守ったのではない。うまく切り抜けたのだ。知恵と勇気でうまく切り抜けて見せたから、於大にも通じたのだ。これが直虎の成長であり現実との折り合い。「答えはひとつではない」の体現。

「子どもをもたぬあなたにはわからない」に対して、「あいにく子どもをもったことがないせいか、どの子も等しく我が子のように思える」は、あまりにもよくできた答えというか、直虎の言動には必然性を感じても、余人がなかなかその境地に達することは難しいと思うのだけど、「助けられない命が山ほどあるからこそ、助けられる命は助けたい」という言葉は沁みた。

直虎の死後、南渓和尚がドラマ最後の問いを万千代に向ける。井伊の魂とは何ぞや、と。

「井伊は、井戸端の拾い子が作った国。
 ゆえにか、殿はよそ者にあたたかかったです。
 民には竜宮小僧のようにあれかしとし
 泥にまみれることも厭わず、
 おそれず、
 戦わずして生きていける道を探る・・・」
と、万千代。

「殿は小さな谷でそれをやった。そなたはそれを、この日の本を舞台にやるのだ。頼んだぞ」

そう、クライマックスの「自然 守護劇」に象徴されるように、直虎が為したのは小さなことばかりだ。

小さなことばかりがいろいろと描かれたことがこの大河ドラマの美点であり今にふさわしいメッセージだった気がする。不世出の能力やカリスマで皆を虜にし、ぐんぐん引っぱる上からのリーダーではなく、一緒に泥仕事もし、人々の命や暮らしを大事にする同じ目線のリーダー。リーダーに頼るだけじゃなくて誰にだってできることはある。無力じゃない。自然を引き渡さなかった直虎のように、みんながNOを言えば。みんなが大事なものを守ろうとすれば、みんなが賢くなればいろいろ変わってゆく。その小さな積み重ねの上に、“柄も肝も小さい豆狸” が旗印になる新しい世の中が生まれてゆく。

面白い物語を前にして政治的・社会的に読解するのも興ざめかもしれないけど、森下さんの脚本にはいつも社会システムを見つめ批判する目線も感じる。でも彼女にはことさら社会派な作家という印象はない。同時にかなり下世話な欲得や煩悩も描きこむ人だし、「生きる」って、なんもかんもいろいろ、ごったに含んでるっていう彼女の作風がとても好き。

直虎の死。子どもの姿に戻るのも、そこに龍雲丸(こども)がやってくるのも、民たちに送られて領主の姿で井伊谷の地に立つのも、かしらが恐らく直虎と時を同じくして死んだのも、こうして描かれてみたらすべて納得だ。すべて納得だ、という最終回をやってもらえる有難さ~!

かしら、せっかく通詞という陸の上で稼げる仕事についていたのに、わざわざ南蛮船で海に出て死んだんだなと思うと悲しい。でも龍の雲が出ていた。あれはかしらの死に方じゃなくて、生き方だったんだろうな。そしてかしらもやっぱり、鶴・亀と同様、直虎と濃いさだめで結ばれた相手だったなだと思う。それでもやっぱり死は悲しい。

とわの死も、万千代やしのなど、ちょっと離れて暮らしてた者たちには寝耳に水だっただろう。ある日突然手紙で知らされて、実感もないままに弔ったり、距離があればそれすら間に合わないことも多かったんだろうな。誰も、悲しみを言葉にせず、静かに衝撃を受けている姿が印象的だった。やっぱり死は悲しい・・・。

でも、これまで様々な人の無念の死を見送ってきた直虎が、こうして多くの人に悲しまれ、送られる側になれてよかったなとも。特に、南渓に見送らせることができてホントよかった。いや彼もさまざま思いのままにならぬ人生だと思うけど、おとわを見送ることになったのは因果だな~って感じがして、森下さんの作品らしい! いや、史実で南渓さんほんとに長生きしたって話なんだろうけどさw

小さな谷が根拠地の井伊だから、盃を並べての「船出じゃ」というセリフはちょっと浮いてる感じがしたんだけど、あれはTLで指摘されていたとおり、『真田丸』初回に捧げていたのもあったのかも。『真田丸』の最終回でも、井伊に関する言及があったんだよね(突っ込んでくる井伊の赤備え軍団に対して、信繁が「あちらにもここに至るまでの物語があったのだろうな」という)。三谷さん、「ありふれた日々」に直虎の感想書いてくれないかな。見てないかな。見てるでしょ絶対!

「私なんかは木を伐るしか能がなく」
「つぶれた家の子で」
「育ての親が逆賊として磔に」

おまいらのアピールポイントw 万福、生き生きしてるw 万千代、しみじみした風情を出してるのが軽くイラッとするww 

徳川、北条と和睦して大大名に → その影に使者・万千代と井伊谷~ズあり →井伊谷~ズが弱みを強みに変えられたのは直虎の奮闘あってこそ

という流れなんだけど、さらに掘っていくと出てくる政次の処刑とか気賀の壊滅とか、そもそも直虎が領主にならざるを得なかった直親や井伊の男たちの無念の死など、暗い悲しいことはたくさん出てくる。
それでも直虎の生涯は、やはり美しくすばらしいものだったように思える。
井伊がずっと平穏無事だったら、彼女の一生はかび饅頭だったかもしれない。それも幸せだったかもしれないけれど

人生、コミットメントしてこそ。
という、森下佳子の脚本の真骨頂だなあ、やっぱり。

大河ドラマに酒宴シーンはつきものだが、かつてここまで凝った扮装の宴があっただろうかw エビで鯛を釣る豆狸w 松也、当たり前だけど舞台化粧映えるな!!

打って変わって、元服で直政爆誕シーンはすがすがしく。「ついに、とうとう、やっと・・・!」という梅雀のナレーションが良い。井伊と小野の通り字を一字ずつ与えられた虎松。それは南渓の入れ知恵なんだけど、きっと、庵原とか岡崎衆とかいろんなところで彼らの思いを汲んで大きくなっていった家康なのだろうな、この作品の家康は・・・と思わせるものがありましたね。

感動の涙をぽたっと落としながらも褒美と言われて驚いて顔をあげる万千代の、なんとみずみずしいこと! 色小姓問題再燃するんじゃないかと思ったわw

と思ったら井伊の赤鬼本格デビューw 最後の般若顔ありがとうございますw 赤備えに身を包んだ直政もよかったけど、赤は控えめで黒い鎧に身を包んだ万福に「小野だ、小野の鎧だ・・・!」と思って感動してしまいました。TLによると、『風林火山』で高橋一生(駒井政武)がつけていた鎧だとか? 言挙げをする直政にかける万福の「殿ー!」という一言の腹から出てる感じがすばらしかったです、井之脇海くん。

そして、疾走する直政の姿が若き日の直虎に変わるとき、最高のカタルシスを得ました。その数秒で理屈の要らない、言葉にならない感動が・・・!

わくわくした顔の直虎。碁盤を示す直親(の手)。そして政次(の手)が打つ最後の一手で、「完」が完成・・・・ばかだなーってクスッとしながら泣ける。

キャストのこととか、年内にもうちょっと書けたらいいな。いったんここまで。