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『経世済民の男』 第3部 「松永安左エ門」 と シリーズを見終えて

ドラマ 歴史

第3部は、脚本:池端俊策。演出:柴田岳志 というコンビ。私への訴求力、最大級! そして実際にすごく面白かった。なんという潔い、おじんドラマ! 主演に吉田綱太郎を迎え、國村隼萩原聖人伊東四朗高嶋政伸うじきつよし国広富之岩松了宝田明・・・。これらの中の紅一点が、還暦の伊藤蘭である! あ、冒頭で安藤玉恵も出てたか。

松永安左エ門なんて名前しか(名前すら)知らない大半の視聴者を引きこむ冒頭。昭和12年、「軍部に抱きこまれている役人はクズだ」と演説して不逞の輩に踏み込まれピストルをつきつけられる。すると直前までふてぶてしくメシをかきこんでいた彼は一転、床に額をこすりつけて大声で謝罪。機先を制す「ケンカ屋」の手管を見せる。

統制経済に突き進む国家に反発。「戦争をするにも電力がなければ参っちゃいますぞ」。この「参っちゃいますぞ」っていう言葉選びがいいんだなあ。

「電力の不足は日本的精神で補う覚悟が帝国軍人にはある」と東条英機*1。松永は「お言葉だが、必要なのは日本的精神より科学的精神だと思うがね」。この“日本的精神”と“科学的精神”の対比は、或いは実際の対話がもとになっているのかもしれないが、戦後、昭和天皇疎開先の皇太子(もちろん今上天皇のことね)に出した手紙に書いたという敗戦の原因、「精神に重きをおきすぎて、科学を忘れたことにある」の一節からヒントを得たのかなとも思った。

ことを穏便に運ぶに汲々とするばかりの時の首相・近衛文麿*2に対しては「公は電力の国家統制はしないという約束を違えた。戦争は、負けますよ」と囁いて、悠々と小唄を歌いながら去っていく。一般に流布している東条・近衛のイメージをうまく使って、それに相対させることで松永の性格や立ち位置を描いて見せる。脚本、さすがの腕である。

 

そこからは大胆に巧妙に、当時の電力事情を盛り込んでいく。

戦後まもなく、日本の水力発電は全国で270万kw。火力と合わせても700万kw。それが、水量豊かな大河に新たにダムを作ることで一河川で200万kw発電することも可能になるという。ダム、発電。今でこそ、ダムや電力には無駄遣いや自然破壊等々マイナスイメージしかないほどだが、当時は夢そのものだった。「離島や山奥、国の隅々にまで電気が行きわたる」未来を夢見て抱き合う測水所長と松永。てか、ドラマ開始10分以内のこのシーンで、既に吉田綱太郎がバッチリ老けメイクなのが「おおっ」だったわ。

しかし簡単に事は運ばない。戦時中、統制経済の一環として「日本発送電会社(日発)」が設立され電力事業を行っていた。戦後、GHQはその解体を迫るが、税金を投入し社員4万人を抱える大組織にメスを入れることなど誰もしたくない。そこで「大ナタをふるえる人物」として名の上がったのが松永ということになるのだが、松永を審議会の委員長に指名しながらも、首相の吉田茂と側近の白洲次郎すら本心では日発の解体に消極的だった。

吉田茂は、伊東四朗白洲次郎高川裕也というキャスティングで、私この方を初めて見たのだけど、写真に残る白洲の風貌にとても似ていた。伊勢谷友介谷原章介、そしてこの高川と、この7-8年でNHKドラマに白洲が出るのは少なくとも3度目だが、容貌だけでなく、徐々に実際の「吉田の懐刀」「暗躍家」的な面が描かれてきているような。

審議会の発足。マスコミ向け撮影のあと、顔合わせの茶会。出方をうかがうような三鬼に対しても、GHQへの挨拶でもガツガツいく松永。彼のケンカの仕方は「攻撃は最大の防御」。で、ちょっと旗色が悪いとパッと審議を打ち切って出て行ってしまう。これでは議論にもならないのだが、議論でどうこうしようなどと思っていないのは日発温存派の大将・三鬼も同じで、水面下で審議委員や国会議員の支持を取りつけている彼は余裕しゃくしゃく。

統制経済の名のもとに、日発には大量の税金が投入されており、おかげで電力料金は安く抑えられている。実際、戦後、石炭の料金は100倍になったが、電力は35倍に抑えられていた、というセリフがあった。35倍ってそれでも想像つかない事態なんですが。

三鬼ら、審議委員のうち5分の3は、安い電気代の恩恵を受けている企業の経営者だから、日発を解体して松永の唱える「全国を9ブロックに分けた日本独自の民営化」などにメリットを感じるわけはさらさらない。松永は、法学者の小池と合わせての3票を狙って、委員の一人、国策パルプの副社長水野を陣営に引き入れようとする。

松永邸で、水野との夜の会談。壱岐出身で慶応に入り福沢諭吉に師事した松永は、福沢に言われた「官僚や政治家なんかになっちゃいかん。風呂屋の三助、うどんやで修行をしても、独立独歩で実業に励め」という言葉が自分の原点だと言う。だから自分はケンカに次ぐケンカの人生だと。「日本は戦争に負けた。うどん屋の修行から始めなければ」。すなわち日発解体、電力事業の民営化である。

水野は「私の考えはちょっと違います」と言う。幼いころに預けられていた農家での、3畳の板間で豆腐1丁を家族で分けて食べる貧しい暮らしが忘れられない。どんな貧しい人にも水や電気を使えるようにするのが国のつとめ。だから自分は、日発解体によって電力料金が上がることに反対なのだと。次の間には、松永の秘書でありドラマのナレーターをつとめる中村(萩原聖人)が控えている。彼はこの場で一言も口をきかないのだが、彼の存在があることによって、「松永も水野も、そして中村も、戦争を経験してここにいるのだなあ。この当時はみんながみんな、そうなのだなあ」と強烈に感じた。

しかし日発は戦争に協力した組織である。国が統括して成功したためしなんかない、という松永の持論は変わらない。話している最中にも断続的に停電があり、やがて電気は復旧せず部屋は暗闇になる。「民間が知恵を絞れば、こんな停電なんてすぐになくなる。そうすれば、国民は納得して払う」。

松永の信念に対して、水野の反応は描かれない。彼は次に三鬼に会う。戦後の象徴っぽく、テニスをしている。松永について「あの爺さんの面白いのは、あの年で夢を見ているところだ」と三鬼。「日発温存という結論になれば、我々は戦争から学んでいないことになります」という水野に、「おおいに学んださ」と、こともなげに三鬼。「これは仮の答案だ。きちんとした答えは5年、10年先でいい。我々に必要なのは夢じゃない。足元を見ることだ」。おそるべき、しかし、いかにもありがちな、現実路線という名の先延ばし案である!!

この、水野が松永・三鬼それぞれと対峙する場面はぞくぞくするような緊迫感があった。ケンカ師の松永(吉田)、狡猾な三鬼(國村隼)。両者に対する水野はうじきつよしだが、捻らない素直な演技に苦みがにじんでいてなかなかすばらしかった。國村隼はもちろんこの手の役が似合う。悪玉というよりはサラッと演じていた。三鬼には三鬼の事情というか信念があるのだろう。

審議会は松永が孤軍になり日発温存の結論を出す。結局、三鬼についた水野が「松永案を注記するのが条件」という、えらく勇気を出したけど焼け石に水、みたいな留保をつけるのが面白かった。家に引っ込み趣味の骨董にふける松永は、池田勇人通産大臣に就任したことを知り、また上京する。果たして、池田は松永案を支持する。池田勇人、もちろんのちに「所得倍増計画」を唱える首相である。演じるのは高嶋政伸。「数字にめっぽう強い」とナレーションされる若々しいオーラをまとっていて好感だった。

その池田すら救世主にはならず、最終的にGHQの「ポツダム政令」によって松永案が容れられるラストは驚愕だった。そ、そうだったのか…! 分割民営化、九ブロックによる電力体制というのは、審議会でも国会でも支持されず、GHQ超法規的措置によってなされたものだったのだ。これ、皆さん、ご存知でした?! 当たり前にあるものと思っているもののルーツを、私たちは、知らないものですよねえ…。考えてみれば、電電公社国鉄も、民営化したのはずっと後年なのに、電力会社は戦後わずか4年とか5年とかでそれを果たしたしたわけだ。

 

吉田綱太郎は舞台仕込みの演技を見せるが、叫ぶと意外に一本調子になるようなところもあって、私は『風林火山』の津田監物の役で初めて見たせいか、彼は抑制された演技のほうが好ましいような気がしている。今回もそう思った。しかし粗野で一本気で人望のない男を、大柄になりすぎず、どこか哀しくコミカルに演じていて、全体に魅力的だったと思う。國村や宝田や伊東らの力を得て、彼が主演っていうのがね、時代だなあ。でもみんな魅力的でした。私、おっさん・じいさん俳優がアップになるのがたまらなく好きだ、と思いました。皺って雄弁だ。

池端脚本、政治的セリフの応酬の魅力が見事。それぞれが信条・心情を滲ませつつ、感傷的にはならないのが、いい。これをこなせるのはやはり年を重ねた役者ということになりますな。色っぽい部分とか柔らかい部分を排除して思い切って政治を描きながら、コミカルな匂いを主役に担わせて見やすくした(この点、吉田綱太郎との相性はよかったと思う)。

 

高橋是清小林一三松永安左エ門。「経世済民の男」が取り上げた3人には、共通点がある。ひとつは、みな長命で、最晩年まで自らの仕事の第一線にあったこと。もうひとつは、国家(軍部)による統制に反発したことである。

関東大震災の惨状を見て、老骨に鞭うち再び大蔵大臣を務めた高橋の言う、「人は誰しも楽しみの花を咲かせにゃならん」や「財産なんか残さなくていい」。戦前から戦後まで働き通しの小林が言う「働くことは楽しい。夢を見ることは楽しい。努力は報われるべきもの」。そして、今回の松永が言う「企業を支えているのは人間だ。国が我々を立て直すわけではない。我々は我々自身で力を持たなければならない。」

これらを、それぞれの脚本家から視聴者への直截のメッセージだととらえるつもりはない。けれど、ドラマの主人公がその時代を生き、働く中で培った、血の通った人生哲学であることは伝わってくる。だから耳に残るセリフになる。耳に残るセリフは、やはり視聴者への問いかけになるといっていいだろう。

それらを現代にそのままスライドして通じるかどうかは、視聴者それぞれの価値観に委ねられるところ。私は・・・労働にしても国家観・企業観にしても時代を経てものすごく変わっているところ、今後変わるべきところはあるけれども、「このような経緯で今日がある」「このような人物の働きで成されたことがある」と知ること、広く共有されることってやっぱり大事だよなって思う。まあ毒にも薬にもならないコメントですが(笑)

それは、「ニッポン人ってやっぱりすげー!」っていう、昨今よくある日本バンザイ案件じゃなく、むしろ真逆のベクトルでもあってですね、戦前や戦中にこれほど独創的で、信念も強く、権力と戦うことを辞さない人々がいたということはつまり、「これほどの人々がいても、それでもなお、戦争は止められなかった」ということだと思うんですよね。

彼らはただの一般人ではなく、社長だったり大臣経験がある、影響力の大きな人物。そろって、統制経済や軍部の台頭を嫌気し、嫌気を表明していた。でも、ダメだった。歴史のうねりを止めることは斯くも難しい。その苦い経験があったからこそ、小林や松永のように戦争を生き残った人間たちがさらに仕事を成したという面もあるのだろうけど。

明治以降の近現代史、その知られざる偉人の発掘とそのドラマ作りの実験、という意義は十分果たせた3部作だったと思うが(そういう意義があったのかどうか知らないけど)、わざわざ戦争と関わる3人を選んだのも意図的なものなのか、知りたいところ。

まあそうでなくともやはり、明治以降というのは必ず戦争に行きつく時代であって、そういう時代のドラマが今多く作られているということは、私たちの多くが今、その時代に興味を持っているということであり、私たちが今生きているこの時代と、無意識のうちにでもどこか比較検討しているということなんだろう。

 

*1:これが、なんと大竹まことなのだが、出番がここだけということもあり、「この手があったか!」と手を打たせるキャスティングになっていた

*2:利重剛。この扮装もひと目で近衛とわかるものだった!グッジョブ