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『日本の血脈』 石井妙子

日本の血脈 (文春文庫)

日本の血脈 (文春文庫)

小泉進次郎香川照之中島みゆき堤康次郎小沢一郎谷垣禎一オノ・ヨーコ小澤征爾秋篠宮紀子妃、そして皇后美智子。各界で名を馳せる10人の人物について、父母の代、祖父母の代、場合によっては曾祖父母の代にまで遡って家系を見ていくルポタージュ。いってみれば、月刊「文芸春秋」版の「ファミリーヒストリー」である。ただし、NHKの番組と違って、当人に優しい取材ばかりではない。あとがきによると、「10人の方々には極力お会いできるよう努力したが、ひとりも取材に応じてはもらえなかった」とある。

とても面白かった。・・・と、こういったものに対してあっさり言いきっていいのかどうか、少し躊躇はある。

筆者はあとがきで、連載中に起こった「橋下徹の出自を取り上げるルポ」問題(週刊朝日佐野眞一が連載を試みたが中断されたもの)について触れ、「佐野氏の表現方法には問題があったとはいえ、ある人物に迫ろうとするとき、その家族の歴史に踏み込めないという前例が、世論の中で形成されかねない状況に大きな危惧を抱いた」、「テレビのコメンテーターたちはこぞって『人を祖父母にまで遡って調べるなど許されない』と批判していたが、同じ番組の中で、親や祖父母が著名人である二世、三世を取り上げて、安手の家族物語や家族愛を謳っている。その矛盾は語られることがない」と書く。

こういったものには、作り手(書き手)にも受け手にもある水準の何かが求められるんだろうと思う。それは、一言でなんと言ったらいいんでしょうね、「人の人生を判定しない態度」というか。

ハッキリ言って好奇心に突き動かされながら読んでいた。小泉家が世襲の政治家系であることは知っていたけれど、そのきっかけが、純一郎の曾祖父(進次郎の曾祖父)、貧しい農民に生まれた「由兵衛」が明治前期、新たな軍港として開発された横須賀で働く人足や沖仲士を管理する人入稼業を立ち上げたことにあるとは、とんと、知らなかった。由兵衛の子である「又次郎」は家業を継ぐ際、荒々しい労働者たちの上に立つため、背中一面から腕にかけて刺青を彫り、「小泉組の親分」と呼ばれたという。やがて組同士の勢力争いの成り行き上、又次郎は政治の世界に入ってゆくのだが、そこでも政党政治の影の部分、汚れ仕事を担い続け、初入閣したのは64才のときだった(濱口雄幸内閣の逓信大臣)。又次郎の実の娘か養女なのか、今もって判然としない「芳江」がとった婿が「純也」、その二人の間に生まれたのが純一郎ほか6人の子どもたちである。彼ら彼女らは一貫して政治家としての純一郎を支え、殆どが小泉家の公設/私設秘書として俸給を得ている(いた)。一家の収入は純一郎が政治家である(あった)ことによって保たれていた。「又次郎」はまた、非常に艶福家で、正妻のナヲが品川の元芸妓であり置屋を営む女性であったほか、花柳界との噂が絶えず、政治資金も料亭や置屋の稼ぎから出ていたという。歌舞伎やオペラからロックに至るまで、華やかな芸事を好む家風は今も健在である。

古い部屋で秘密の日記を読むような、背徳的な快感めいた気分がないとは正直言えない。でも当然ながら、こういうものを読んで、当人を支持/不支持するのも、同情するのも感動するのも違うわけで、要するに「(どんな)人に歴史あり」という、ただそれだけなんだよね。と、受け止めたい。ドラマチックでない人生なんてあるだろうか。今も生きにくい時代とはいうが、3,4世代も遡れば、日本人全体がもっともっと貧しく、なんらかの形で戦争の影響を受けていたのだ。

子は何らかの形で親の影響を受ける。たとえ親と幼くして死別/性別したとしても、「親を幼くして失くした」という影響が、どこか子の人生に反映されるだろう。親はまた、その親の影響を受けている。であれば、直接祖父母から孫にという形だけでなく、二代前、三代前の血縁からの影響も、親を始めとした血縁者を通じて、私たちは受けていることになる。もちろん「血脈」ばかりが人間を作るのではない。ひとりの人間の背後には、斯くも多くの背景があるということだ。私にもあなたにも。

しかし同時に、家々によって差はあれど、父祖の来歴は三代もすれば多くが失われがちでもある。祖父母の往年の職業ぐらいはわかっていても、その青春や幼年時代までには、孫でも注意を払わないものだったりするし、そのころの暮らしは、今やほとんど影も形もないのが普通だ。

ここに描かれる有名人の父祖の姿に、私たちは自分の父祖や、当時を生きた日本人たちの輪郭を見ることになる。

だから書き手には、なおさら厳しい良心、「人の人生を判断しない態度」が求められると思う。本書は総じて抑えた筆致とはいえ、とりあげる人物に対する筆者のイメージが前提で書かれているようなところが見え隠れするのには閉口した。すべて肯定、あるいはすべて否定ならば、まだ「そういった本」として客観的に受け止めやすい。ただ、本書の場合、否定/肯定が入り混じっているうえ、その判断基準が恣意的に思える部分がある。一度そう思うと、「そのようなイメージをもって情報を取捨選択しているのでは」と疑問をもちながら読むことになってしまう。まあそれはそれで、書いてあることを鵜呑みにするよりもいいのだろうか。この書き方が意識的なものなのか、あるいはむしろ、「客観的事実などない」という良心として「書き手の意識」を見せているのか、ちょっと気になるところではある。