『天皇の学校〜昭和の帝王学と高輪御学問所』大竹秀一

天皇の学校―昭和の帝王学と高輪御学問所 (ちくま文庫)

天皇の学校―昭和の帝王学と高輪御学問所 (ちくま文庫)

学習院初等科を卒業した昭和天皇は、その後7年間にわたって東宮御学問所で学ぶこととなった。開校は大正3年のことだから、東宮とはつまり昭和天皇(当時の裕仁親王)その人のことであり、彼に帝王学を授けるために作られた小さな学校である。

良家の男子5人が学友として机を並べ、授業科目は倫理、国文、漢文、歴史、地理、数学、理化学、博物、フランス語、習字、美術史、法制経済、武課、体操、馬術、軍事講話といった多岐にわたった。

当初、この学問所の設立に力を尽くしたのは、陸軍大将の乃木希典日露戦争を戦った大元帥である。明治天皇の死に殉じて自刃する前日まで幼い東宮の教育に心をかけていた彼の志は、御学問所幹事小笠原長生、総裁東郷平八郎らに受け継がれ、授業を受け持つ教師には当時の最高の学者や知識人、軍人たちが選ばれた。

本書ではそのそれぞれの人物について、生い立ちや経歴、学問所の職に就任するまでの経緯を詳細に記しているのだが、大正の初めに教師となるような世代であるから、当然ながら皆、「慶応○年、○○藩の○○の子に生まれ・・・」というふうに始まる。ある人は会津白虎隊士として戦い、またある人は高貴な生まれであるがゆえに、幕末の動乱を避けるため父母から遠ざけられ市井に匿われるなど、現代に読めば皆、波瀾万丈のかぎり。この時代に重職を歴任したような人々は、それぞれ維新の経験や、文明開化と富国強兵の明治の世で大変に克己した歴史をもっているのであり、このような人々に、裕仁親王は教育を受けたのである。

中でも多くのページを割かれているのは杉浦重剛であり、彼が教授した倫理学こそが、帝王学の礎であった。

その授業内容は大きく二つに分類できる。

●1.徳目や箴言、名句の類をテーマとしてとりあげたもの。
「好学」「納諫」「忍耐」「仁愛」「敬神」「正直」「清廉」「高趣」「綸言汗の如し」「百聞不如一見」など。

●2.自然現象、人物、史実、社会事象などをテーマにしたもの。
「桜花」「明月」「山水」「上杉謙信」「中大兄王子」「赤穂義士」「ワシントン」「孔子」「コロンブス」「イソップ」「マホメット」「詩歌」「酒」「音楽」「文系」など。

もちろん、これらの基本を貫くのは、三種の神器、五箇条の御誓文、教育勅語といった、当時らしい皇道である。それがいいとか悪いとかいうことに本書では触れていない。ただ、杉浦の倫理学についての言を引いている。

「世に所謂王道覇道の如きも、覇道は法律により刑罰を以て民を修め、富国強兵を期するものなれば、之を行ふこと余りに難からず。
 然れども王道に至りては、先づ自ら仁義を行ひ、然るのち民を風化して根底より国家の昌盛を期するものなれば、之を行ふこと頗る難し。」

著者は、これを次のように約し、その倫理学についてまとめている。

つまり、一言で言えば、覇道とは力による統治であり、王道とは仁による統治ということであろう。外国の帝王はいざ知らず、日本の天皇はつねにこの王道をめざし、王道の上にこそ立たなければならないというのが杉浦の揺ぎない信念であり、280回にわたって裕仁親王に進講した「倫理」の全体を通じて流れる主調音であった。

(エミ註:「日月無私照」というテーマの講義の中で)杉浦は、
「王者の心事は、天の万物を覆ふが如く、地の万物を戴するが如く、また日月の万物を照すが如く、公明正大にして些かの私を挟むべからざること。。。」と述べているが、この「日月私照無し」という言葉も、その意味するところは畢竟、「一視同仁」や「王道」と同じものであろう。杉浦はただこの一事を、言葉をかえ、例証を違えながら、繰り返し繰り返し、裕仁親王に説いたのではなかったか。

本書のエピローグにおいて、終戦の折の天皇の決断が紹介される。著者は明示しないまでも、この有名な天皇のことばを、御学問所における教育が結実した例として挙げたのであろう。

昭和20年8月、アメリカを始めとする連合国軍ポツダム宣言受託について、日本側は「天皇の国家統治の大権を変更しない」という条件をつけたが、連合国側からは「最終的の日本国の政府の形態は、日本国民の自由に表明する意思により決定せらるべきものとす」との回答だった。
これでは、天皇の統治権が保証されたとはいえない。陸海軍は受諾について最後まで反対し、政府内の意見は最後まで割れていた。しかしそこで、天皇ははっきり言ったという。

「それで少しも差し支えないではないか。たとえ連合国が天皇統治を認めてきても、人民が離反したのではしようがない。人民の自由意志によつて決めて貰つて少しも差し支えないと思ふ」

「君臨すれども統治せず」という立憲君主制を重んじ、自らは政府の決めた案を承認することによって憲法を遵守してきた天皇が、生涯で数少ない政治的な意思表明をしたことにより、時局は一気に終戦へと動く。
「人民が離反したのではしょうがない」という言葉は、“民意を失った王政は成り立たない”ということに通じ、それは御学問所において杉浦の倫理学の根本にあるものだった。

終戦に至るまでに失われたものはあまりにも多く、この1件をもって昭和天皇の明愚をはかることはできないにしても、その後、確かに日本人の民意が天皇制廃止に向かわなかったことは歴史が既に証明している。
著者は、学問所における教育の評価について何も明言はしなかったが、本書を読み終えたとき、明治維新より前から生きた人たちが多く心血を注いだ昭和天皇への教育が徒労に終わるものだったとは、私にはどうしても思えなかった。