『明治天皇を語る』 ドナルド・キーン
「明治天皇の人物像」に迫る本って、そういえば読んだことがないな興味あるなと思って買ったんだけど(中古)、多少学術的なものを期待していたので正直、肩すかし感はあった。根本的に史料が少ないってのもあるんだろうけど、著述にしてもほとんど出典が明らかにされていないので、「それって私見では?」ってことが多く、眉ツバだなーと思ってしまう。
逆に言えば、すらすらと読みやすいし、「キーン先生の私見による明治天皇」だと思えばいいんだろうな。ま、タイトルからして「(ドナルド・キーンが)明治天皇を語る」ってことなんだろうし。
一番印象的なのは、明治天皇の核は「義務感」と「克己心」であり、それは儒教思想によるものだということ。熊本から来た元田永ザネという儒教者が明治天皇に仕え、大きな影響を与えた。その思想は、「知識だけではなく実行することが儒教の本当の意義」とする実学であったという。
天皇とはそれまでも習慣や先例を重んじる存在であり、そのために義務感や克己心が発揮されることが多かったにしても、明治天皇の場合、「国民と共に」「一般の兵士とともに」という精神、あるいは「国のためにどうすべきか」という考えから行動する点がまったく違う、ということだと思う。
いわく、
・天皇は、避暑地や避寒地に行くことはなかった。
・衣服の新調もほとんどせず、裏にツギをあてて着ていた。
・脚気を患ったときに転地療法を薦められても、「国民だれもが罹りえる病気であり、誰もが転地できるわけではないのだから」と断っていた。
・日清戦争の頃、主力部隊がかまえていた広島の本営に赴いた天皇は、7か月の間、粗末な木造の家に住み、一室を寝室にして昼はベッドを片付けて執務室にし、食事もそこでとっていた。
女官(側室)をお呼びになればという提案にも「前線の兵士は妻を呼び寄せるか」と反対し、数か月後、やっと皇后が来てもすぐには会いに行かない。
・内閣の会議にはすべて出席していた。ただし一言も発しない。当時の内閣を構成していたのは幕末の戦争で活躍した人々で、実際、政治家肌ではなく、閣議であっても雑談や猥談に終始する場合もあっただろう、天皇さえいなければ。そこに天皇がいるために、みなが大臣らしい言動をしなければならなかった。「自分がいることが重要だ」と天皇は考えていた(というキーン先生の私見だと思いますが・・・エミ註)。
・日清戦争の開戦に反対していた明治天皇。勝利後に発した詔書で、天皇は「平和の保持こそが天皇の使命である」こと、「不幸にも起こってしまった戦争に勝利できたのは国民のおかげだが、日本が勝利に驕慢となり、相手国を侮辱するなど友好国の信頼を失うことがあってはならない」ということを述べている。「憎むべき敵に勝って良かった」のような内容が含まれないのは、当時の元首としては異例。
・日露戦争の旅順陥落の報を受けても、報告した軍人は喜びと興奮で震えていたが、天皇は沈着冷静で何度か頷いただけだった。
これらを読んで思い出されるのは、やはり昭和天皇である。60余年の在位を通じて、ほんの数度の例外以外(そう、2・26と終戦のとき)、私心というものを出さない人だったと、私はそういう認識でいる。
昭和天皇の幼少期・少年期の教育に明治天皇が深く関与したことは知っていたが、明治天皇自身がすでに「天皇という立場の者として自分を律する」ことに厳しかったのだ、と。その流れが、短かった大正年間のあと、昭和に引き継がれていったのであり、「日本の近代の天皇はかくあるべし」という帝王学を作ったのは、明治天皇だったのだなとしみじみ思った。
著者は全体にかなり好意的に著述し、「絶大な権力を持っていながら行使しようとしなかった」義務感と克己心の明治天皇を高く評価している。人事や軍事に平気で口を出し好悪で物事を判断した同時代のロシアやドイツの皇帝たちとは、知性の面でも倫理観の面でも卓越していたといい、「当時の皇帝の中でも世界一の存在だった」「明治大帝といったほうがいいのではないか」とまで述べている。
もちろん優秀な政治家の力や国際情勢もあったにせよ、この天皇の在位が長かったがゆえに世情が安定し、近代化、先進国化に向けてぐんぐん進んでいけたのだ、という論は一理ある。ただ、その明治天皇の教えを忠実に守り、やはり義務感と克己心とを発揮して「君臨すれども統治せず」の帝として昭和天皇が君臨した時代に、日本は大きな戦争に向かい、内外で多くの人命を失わせたのだよね。
もしかしたら、昭和天皇が克己心など発揮せず、早くからその倫理観や平和的外交感覚で自らの権力を行使し采配を振るっていたら、戦線はあそこまで拡大しなかったかもしれない…。これが歴史の妙であり残酷さなのだと思う。もちろん、終戦に際して昭和天皇の力は大きかったのだけれど。
ちなみに、明治天皇はどういう声で、どういう言葉遣いで話したのか。その資料(音声資料)はまったく残っていないらしい。京都弁だったのか、宮中で使われていた特別な「御所言葉」だったのか、それとも標準語だったのか。皇后のことをなんと呼んでいたのか、など、まったくわからないのですって。惜しいですね。