夢の中の町

仕事を辞めて時間ができたら、子どもを産んでかかりきりになる前に、行ってみたいところがあった。
とある団地。
私はここで生まれ育った。10年間だ。だから子ども時代の思い出のほとんどはここで作られた。

ここから居を移して20年以上が経った。団地は築35年を迎えている。
これまでも、今も、そう遠くもないところにいるのだけれど、もう長いこと訪れていなかった。
友だちもみんな、それぞれに引っ越していってしまっている。子どものころの団地住まいって、そういうものだ。

日本全国のあちこちで見られるように、いわゆるニュータウンのオールドタウン化を想像していたけれど、予想以上にきれいだった。

もちろん、あちこち様変わりしていた。いちばんに驚かされたのは、公園だ。

経年劣化のためか、私が遊んだ懐かしい公園の遊具はほとんどがなくなっていた。上の写真、手前の遊具はもっと高く大きく、複雑な形をした鉄棒のジムだった。私たちはそれによじ登って飛び移りながら、「鉄棒鬼」という遊びをしていた。公園は数メートルごとに高さの違う、くねくねと曲線を描いた塀に囲まれていて、両端から中央に向かって陣とりをしていくような遊びもあった。そして奥には、対面式の箱ブランコがあった。

今は撤去され、小さな乗り物がさみしげに並んでいる。

各地で事故が多く起きたため、ある時期から全国的に箱ブランコが見られなくなったのは知っていた。現に私も3歳になる前、高速で揺れるその箱ブランコに無理に乗り込もうとして激突し、おでこを2針縫ったことがあるのだが。

すべり台だけは変わっていない。この淡いクリーム色。

遊具が撤去され、あるいは差し替えられているというだけではない。公園そのものが消え去っているところも少なくなかった。

かつて、この場所には「三角山」と呼ばれるコンクリートの正四角すいが3つほど立っていた。頂点までは2mもないくらいの高さだっただろうか、それでも子どもにはじゅうぶんな高さで、助走をつけて斜面を駆け上がっては駆け下りるのがみんな大好きだった。


ここは「プール公園」と呼ばれる公園だったのだが、今は何かの施設だ。


ここは「あり地獄」と呼ばれる公園だった。だだっぴろい広場になっている。


ここもユニークな遊具のある公園だったのだ。通称はきっとあったのだろうが忘れてしまった。私が住んでいた棟からはだいぶ離れていて、「鉄棒公園」や「三角山公園」「あり地獄」に比べると、遊んだ回数が比較的少なかったからだと思う。小さな子どもにとって団地は広い世界だった。


シャッターが降ろされた店舗あと。テナント募集の貼り紙は小さくて、人目をひくのをはなからあきらめているようでもあった。私が子どもの頃、ここは「コロポックル」という名前の駄菓子屋さんだった。


私が知らない問題も。


そして何より、これだけ広い団地の中に、ひとけは驚くほど少ないのだった。平日の午後4時前。遊具の少なくなった公園に幼児の姿はなく、ランドセルを背負って下校する小学生や、買い物袋を下げた主婦の姿もあまりにもまばらだ。

ほとんどすべてのベランダにはカーテンがかかり、たくさんの洗濯物が揺れているのに、この静けさはなんだろう。

やっぱり、今ここに住んでいるのは、高齢の人が中心なのかな。かつてはこの団地の子ども会の会員は、小学生だけでも500人を超えていたものだけれど。

そうだ、この団地には私の通った保育園もあるのだった。写真は撮れなかったけど、今でも子ども達がたくさんいるようすだった。「園児募集」の貼り紙を見ると、園長先生は変わってしまっていた。それもそうか。あれから25年も経っているのだ。でも、園庭も手洗い場も場所は変わっていない。

明らかに妊婦だから、しばし立ち止まって保育園を覗いていても怪しまれることもないんだろう。通りかかった、ゆっくりと歩く白髪のおばあさんに、にこにこしながら「いつ生まれるの?」と尋ねられた。「もう、あと1ヶ月もすれば」と答えながら、なんだか夢の中にいるようだと思った。

風の強い、くもった午後。ここで生まれた私が、臨月間近の大きなお腹で、20年ぶりに、今ここに立っている。まるで白昼夢だ。