『俳句と暮らす』 小川軽舟

 

俳句と暮らす (中公新書)

俳句と暮らす (中公新書)

 

 

小川軽舟、という文字通り軽みのある優しげな俳号と、文学であり芸術である俳句が「暮らす」という生活感の滲む語を伴っているのが興味深くて、手に取った。
本編の最初で紹介されるのは、筆者本人の句。
 

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レ タ ス 買 へ ば 毎 朝 レ タ ス わ が 四 月
 
50才の筆者は俳人といっても妻も子もあり会社勤めの身で、しかも独り東京の自宅を離れて神戸に単身赴任している。そこで簡単な自炊をするようになって、詠まれた句なのである。ささやかな独り暮らしのちょっとした淋しさと、それでも水分たっぷりのレタスをシャキシャキと毎朝食べて仕事に行く健やかさ。爽やかなユーモアが漂っていて、とてもすてきだ。
 
美しい情景を眺めるとか、激しい情念を謳うとかではなく、「暮らし」に寄り添う俳句。筆者の暮らしとは単身赴任の日々だから、章立ては「飯を作る」「会社で働く」「妻と会う」「散歩をする」などになる。
 
サ ラ リ ー マ ン あ と 十 年 か 更 衣(ころもがえ)
 
妻 来 た る 一 泊 二 日 石 蕗(つわ)の 花
 
渡 り 鳥 近 所 の 鳩 に 気 負 な し

 

句の中で出てくるように、筆者の句そのものがどれも気負いなく、肩の力が抜けていて読みやすいし、なんとなくわかるわかる、と思える。

でも、気軽に読める俳句入門、みたいな本じゃないことは、読んでいくとだんだんわかってくる。

「暮らしに寄り添う俳句」と筆者は言う。けれど暮らしを重ねればそれは人生につながり、人生には恋もあれば別れもある。社会への倦みや、重篤な病気もある。そんなときにも、俳人のそばには俳句がある。まさに、良い時も悪い時も、健やかなるときも病める時も俳句なのである。

若いときから藤田湘子に師事し俳句雑誌『鷹』の主宰をつとめる筆者は近現代の俳人名句によく通じていて、本文では多くの引用、解説がある。
 
吾 妻 か の 三 日 月 ほ ど の 吾 子 胎 す(やどす)か 中村草田男
 
23歳の妻が初めて妊娠したときの句だという。三日月ほどにかすかな胎児を想像する彼の感動が伝わってくる。その後も彼の妻に対する恋情は少しも変わらない。
 
妻 抱 か な 春 昼 の 砂 利 踏 み て 帰 る
 
仕事が半日で終わった日、妻を抱こうと心に期しながら砂利をザクザク踏みしめる、やる気まんまんの帰り道(笑)。草田男は、こうまで詠んでいる。
 
虹 に 謝 す 妻 よ り ほ か に 女 知 ら ず
 
昭和11年、34歳で結婚するまで女を知らなかった、そのことを七色の虹に高らかに感謝しているのである。なんという愛!

このように、夫が妻を詠めばオリジナリティーにあふれる名句も多いのに、妻が夫を詠む句はどうも平凡である、という筆者の気づきが面白い。夫は妻というプライベートを俳句という文芸で詠むことで自由になるが、妻が夫を詠んでも性別役割分担の範囲内の話にとどまってしまうのだという。ジェンダー的に、含蓄のある話じゃありませんこと?(笑)

「酒を飲む」の章では筆者の師や兄弟子すじにあたる人々との交遊が回顧される。若い俳人たちの飲み会では、「雨」とか「女」とか題を書いた封筒をプレゼント交換のように回しながら、制限時間3分以内に句を書きつけてゆき、その中から良い句を選んだり批評し合ったりするものなのだという。「俳句とは座の芸である」といわれれば、確かに連歌俳諧の時代を思い出してそうかと思うけど、筆者の回顧する飲み会は文芸をたしなむというよりむしろ体育会系に近い。言葉や発想もトレーニングで鍛えられる一面があり、「一人で詠んでも未完成、人に読まれるというプロレスが何より大事」という筆者の言には多くの物事に通じるものも感じる。

ページを繰りながら人生のいろいろな局面を詠んだ句の数々を見てゆくわけだが、「病気で死ぬ」の章に至って慄然とする。
 
糸 瓜 咲 て 痰 の つ ま り し 仏 か な
 
という正岡子規の絶句を筆頭に、俳人たちは、長く緩慢な病の日々を、あるいは大病を宣告されたショックを、筆舌尽くしがたい闘病の苦しみを、そして死を覚悟した心境をも句に残すのだ。それらの句をここで引くのはあまりに軽々しい気がする。十七文字が発する力のすごさ。

共通して言えるのは、彼らが病気に屈して筆を折ることなく、俳句を作り続けたことである。死に至るかもしれない病気を宣告されても、実際に死ぬまでは毎日を暮らさなければならない。その暮らしに俳句がぴったり寄り添っていたのだ。彼らは、自分自身を深く見つめ、自分を愛してくれる家族を見つめ、そしてもうすぐ去るかもしれないこの世を見つめた。その軌跡として俳句が残った。

時間は、後戻りすることなく前に進んでいき、やがて私たちに死をもたらす。けれど時間は死という終点に向かってただまっすぐ進むだけではなく、四季を巡って循環もしている。冬で終わりではなく、また春が来る。そんな循環が私たちに束の間「永遠の時間」を夢見させるのではないか、だから俳句には季語が必要であり、人一倍季節を感じながら生きる俳人は幸いであるのではないか、と筆者は書く。

変わり映えのしない日常にも、人生最期の日々にも、季節があり、言葉がある。
春の七草の一つであり、小さな白い花を咲かせる「はこべ」を季語に、筆者が詠んだ句が好きだ。
 
平 凡 な 言 葉 か が や く は こ べ か な