『ボブ・グリーンの父親日記』 ボブ・グリーン 西野薫:訳

友だちで、昨年お父さんになったかしわいさんから聞いた本。どうも絶版になってるようで、図書館で検索して発見、予約システムを使って取り寄せた。

ボブ・グリーンはアメリカ人で、有名なコラムニスト。結婚11年目にして妻スーザンとの間に娘を授かった。1982年6月、彼女が生まれてから1年間の日々を書き綴ったのがこの本だ。どんな高い評価を得た彼のコラム集をもはるかにしのぐベストセラーになった。

都会での、大人の夫婦の楽しい生活。酒や社交。取材のために全米を駆け回るのも苦にならないほど打ち込める仕事。35歳までのそんな彼の人生を、娘のアマンダはどう一転させたのか。

僕はずっと夜出歩くのが好きな人間だった。楽しくて、一緒にいる人々が愉快な人達なら、家に電話をして遅くなると言うのに全く気がとがめることはなかった。
ところが今夜は、ほんとうに楽しくて、一緒にいた人達もほんとうに愉快な人達だったのに、僕は8時にはもう家に帰っていた。
もう夜の盛り場には魅力を感じなくなってしまった。夜の町を出歩くことがどんなにおもしろくても、どだい勝負にはならない。僕は腕時計を見、何やかやと口実を言い始め、次の瞬間にはもう家へと向かうタクシーのシートに体を沈めていた。
これが以前は朝の4時に歩いて帰ることもなんとも思わなかった男の姿だとは。
今では、外で何があろうと、そんなことはどうでもいい。コートを脱ぎ、アマンダがオレンジ色のブタさんをピーピー鳴らしている音が聞こえてくると、ああ、こここそ僕の居場所だ、としみじみ思うのだ。

僕たちはアマンダを抱いて、居間にいた。どんより曇った午後だった。そのとき突然雲の切れ間から太陽が顔を出し、下の道路に光があふれた。
スーザンはアマンダを窓のところまで連れて行った。「ごらんなさい、アマンダ! お陽さまが出てきたわ! 見てごらんなさい!」
僕たちは三人一緒に太陽を見た。アマンダが生まれる前、僕たちが最後に太陽や雲に注意を向けたのはいつだったのか、全く覚えていない。

アマンダを見たとたん、両親の口から動物的な、としか表現できない音がもれた。(中略)僕が仕事の上でどんな功績をあげたにしても、孫娘の姿が両親に与えたような感動を彼らにもたらすことはないという事実に、僕はこの瞬間気がついた。(中略)
男と女が子どもを作る。しばらくの間はこの世に3人しか存在しないような気がする。三人の親密さは完璧に思える。だが、年月がたち、子どもを育て、早く一人前になるようにとせきたてるにつれ、親子の間に距離が生じる。子どものために良かれと思ってすることが、いつのまにか最初にあった親密さを自分たちからはぎとることになってしまうのだ。僕と両親の場合、僕のせいで、親子の距離は時にはたいへん隔たっていた。
だが、突如としてそこにアマンダ・スーが出現したのだ。口に出してこそ言わなかったが、父と母がアマンダの中に彼らが35年前に見たのと同じものを見出していることは明らかだった。二人が二度と再び見ることはないと思っていたものを、この子の中に見ているのだ。(中略)
夜遅くなって初めて、僕とアマンダの間にもいずれ必ずこの距離が生じるのだということに思いいたった。

スーザンがおしめを取り替えている間、僕はアマンダのおなかをくすぐっていた。
「いつまでも今の大きさのままでいてほしいな」
そう口に出してしまって、自分でも驚いた。(中略)
「『しかたないわ、パパ』そう言ってやりなさい」スーザンがアマンダに言った。「『私は毎日大きくなっていってるの。自分でもどうすることもできないのよ』って」

生まれてから1年間での赤ちゃんの成長。寝返りをしたり、夜泣きをしたり、自分の好きなおもちゃを選ぶようになったり、「ダァダ」と言葉を発したりといった、日々の細かな出来事ももちろん記されている。しかし、全編をとおして伝わってくるのは、偉大なセンチメンタリズムだ。

かつての自分とはまるで変わってしまったこと。家の中で「子ども」的な存在だった飼い猫が老いていくこと。同級生の若くしての死。世の中の悲惨な出来事について、感じ方がまったく違うこと。もう見られなくなった、娘の歯のない笑顔。彼女がただ一歩、歩いただけで、いつか自分の手の届かない遠くへ行ってしまう日のことを想像せずにはいられないこと。

子どもをもつというのは、一瞬、一瞬を全力で体感するということなんだろうと思う。そして、「二度と戻らない美しい日にいる」(by 小沢健二『さよならなんて云えないよ』)ということを、毎日、毎日、痛いほど感じるということなんだろうと思う。まあ、実際は、子育ての日々のあわただしさとは、そんな感傷に浸る余裕をそうそう許さないものだろうが。というか、そのさびしさ、切なさと真剣に対峙するぐらいなら、忙しくしてたほうがましなくらいだろう。

ボブ・グリーンさんは、仕事柄、鋭くナイーブな感性の持ち主だろうし、そのメンタリティを的確に言葉で表現する技に長けているという点では、一般的な父親とはずいぶん乖離しているだろう。それでも、父親となった男性のほとんどは、ボブ・グリーンと似たりよったりな愛情を子どもに対して抱き、自分の人生の変化を感じるだろう。

子どもをもった女性の変化については想像しやすい。自分のおなかで子どもを育て、産み、そのあとも四六時中、赤ちゃんと一緒にいるのだから。ちなみに私の会社には出産してのちも勤めを続ける人は皆無だし(もっと言うなら結婚してのち続ける人も稀)、友だちにしても、子どもを持つと、仕事をしている自分とはどうしても会う機会が減っていたのが現実だった。「自分の目の前からいなくなる」というのは、子育てをする女性の生活が激変するということを具体的に感じさせるにじゅうぶんの現象だ。

いかにも日本的な男性中心の組織である私の働いてきた会社において、彼らの大部分は子どもをもっている。子どもができても彼らはなんら変わらず会社に来て、それまでと同じように仕事をする。いかにも子煩悩そうな人、家庭の話はほとんどしない人、鬼のように仕事をして夜は飲み歩いてばかりの人、いろんな人がいる。男友達にも、既に父親になっている人は少なくない。たまに会うと、彼らは昔のままのように見える。

でも、ほんとはそうじゃない。きっと彼らは、意識するにせよ無意識のうちにせよ、たとえ1日のほんの少しの時間だとしても、ボブ・グリーンのように「父親としての人生」を生きてるんだなーと思う。こういうことを思うときはとてもあたたかい気持ちになるんだけど、同時に、なぜか少し「ずるいな」とも思って、そういう自分に顔をしかめる。