天皇陛下バンザイ by 嵐 in 国民祭典
おえー。純粋にたずねたい! ここmoonshineを見てくれる方の中にも嵐好きな人はぼちぼちいてると思うんですけど、あの祭典。彼らが議員や閣僚と並んで天皇皇后を「見上げながら」天皇陛下バンザイバンザイと繰り返す姿は大丈夫なんですか?
私、嵐も菅野よう子も岡田恵和も松本白鸚も “ そこそこ好き ” ぐらいのレベルでもけっこうつらかったんですけど。小沢健二があの壇上万歳連盟の中にいたら、先日のMステ録画もしばらく封印しちゃうと思う。
こういうのも、許容範囲って微妙に人それぞれだと思うんだよね。
「こっからは気持ち悪い」という自分のラインを意識しとくのって大事だと思う。
そして、そのラインが動いていないか、その都度、確認すること。
動いてるとしたら、「私が変わったのか? 社会が変わったのか?」と考えてみること。
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無批判な敬意やお祭り騒ぎのムードを作るのは歴史上の権力者の常套手段で、それはそのムードに「下々の民」を巻き込むことで彼らに「得」があるからなんだよね。ちなみに、この場合の「権力者」は天皇皇后本人を指しているのではないですよ。
もちろんこの「下々の民」には今現在の私たちが含まれている。たとえ自分個人は万歳三唱しなくても、まわりの1億人がバンザイするようになったら、そのムードの中で自分を貫けますか?無理だよねー。…っていうの、最近の『いだてん』でもやってた。まさに「バンザイ」のシーンでね。
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皇室の方々に対して親しみや好意、さらにいえば何となくの敬意をいだいている日本人は多いと思います。
でも、ここまで「上下関係」みたいなものをがあからさまに見せられると、非常に強制的なものを感じる。
政界・音楽界・芸能界・スポーツ界などなど、各界の人気者がそろって天皇陛下バンザイバンザイと言い、深々と頭を下げる。でも天皇の側は、国民バンザイと言ったり頭を下げたりしないですよね。とても不均衡な関係。
天皇に向かって頭を下げる首相や人気者たちは、「自分たちは国民を代表するものだ」という形。いわば天皇の権威を身にまとっている。
Twitterでは、「あの(権威ある)式典に出た(権威ある)嵐のファンである私」というふうに、権威に帰属することに(間接的に)誇りや喜びを感じる人たちのつぶやきがいーーーっぱい流れていました。
日本国の象徴であり日本国民統合の象徴。それって、こんなふうに何層もの権威構造を作り出すことなのか?と思うのです。
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私より若い世代になるとあまり記憶してないかなとも思い、書きますが、
平成10年、20年、30年にも、それぞれ「天皇陛下在位○周年を祝う国民祭典」というのがありました。同じ場所、同じやり方で。
平成元年にはなかったのです。
平成の代替わりは昭和天皇の喪の行事と並行していたので歌舞音曲の類は自粛されていたし、昭和の時代には戦争経験者もたくさん生きていたので、あからさまに天皇バンザイという国民行事は基本的になかったのです。
(正月や天皇誕生日の一般参賀や春秋の園遊会は別ね。「国民祭典」のことです)
だから、平成10年に初めて皇居前広場でこういう式典が行われて、YOSHIKIが自作の曲を弾いたりしてテレビで流れたとき、私に限らず、多くの人が「こんなことやるったい」という驚きを持ちました。
人々は日の丸の旗や提灯を掲げたし、同じように天皇バンザイもあったはずです。
「皇室もオープンになっていいね」
と思う人もいれば
「なんか、皇室が通俗化してヤだ」
と言う人もいれば
「これは天皇を政治に利用しているじゃないか、危険だ」
という人もいました。
感想はいろいろですが、とにかくみんな、あるていどびっくりしていたんです。
初めてだったから。
平成20年の式典ではEXILEが目立ってて、あの人(名前忘れた)が「さすがに天皇陛下の前だから」なんつってサングラスをとってパフォーマンスしたのが話題になりました。
平成30年の式典には再びYOSHIKIが登場しました。
そうやって、ディケイドごとの祭典その他を通じて、
芸能人が登場したり、
芸能人のパフォーマンスに日の丸の旗を振ったり、
総理と一緒にバンザイバンザイすることに、
私たちは知らず知らずのうちに徐々に慣れてきてるんです。
だから、改元というビッグイベントの今回、
まんをじして、
さらに予算も規模もどどーんとパワーアップしても、
さほどの違和感を持たない人が増えてきてるんです。私はそう思います。
それって、どういう意味をもつんでしょうか?
そこまでお金と労力をかけてやる意義があるからやるわけですよね。