吉岡忍さん「なぜ、彼は人を殺したのか」 メモ その2

ノンフィクション作家 吉岡忍さんのめちゃすごいインタビュー、
「めちゃすごいけどめちゃ長いので備忘のためにまとめてみる」の後編。
まとめだけどちょっと長い(そして、備忘録なので雑)。

子どもの生育環境や、若者の労働環境の変化。
社会の「排除」の空気。情報と知識の違い。
本当に一読の価値あると思う。以下、要約。。
でも本当に一読の価値あると思う。以下、要約。

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少年が殺した児童の遺体の一部を校門に置いた「酒鬼薔薇事件」。
事件が起きたのは神戸市のニュータウンだった。
生活しかない、もっといえば消費しかない「生活圏の街」。

そういう街にはお墓がない。
人は子どもの頃から、近くのお墓やお寺なんかを見て死を意識する。
そういうものがない、清潔で便利で整然とした街。

生活圏の街では、
子どもは、大人が働いているところや、
苦しんだり喜んだりする姿を見ることなく育っていく。
また、そこでは人々はお互いに無関心、無干渉。

そういう街では自分の中にブレーキを育てるのが難しい。
猫を殺すようなことから始まり、ブレーキが利かないまま、いろんな犯行を起こしていく。

事件が起きたときも、街の人たちは
「まさか自分たちのコミュニティーにそんなひどい犯人がいるはずがない。外から来た人間の仕業にちがいない」
といってパトロールをしたりしていた。

実は内側にグロテスクなもの、どろどろしたものを抱え込んでいるが、表側が清潔だから見えない。見ようとしない。
平成の凶悪事件の始まりにはそんな背景があった。

その後の転換点は秋葉原の通り魔事件。
宮崎勤にしても酒鬼薔薇にしても、彼らには生きる場所があった。
たとえ「生活圏の街」であっても。

秋葉原事件の犯人は違う。
東北で生まれ、自動車部品工場や、警備会社など、派遣労働をずっと転々としていった彼には、定点というものがない。

若い彼らは、個人という顔のない労働力として、流れる砂のように漂っていた。
いつ切られるかわからない、もちろん蓄えができるような給料もない。

経済学でいう新自由主義というものだろうが、たまらない生活だろう。
一か所にとどまって何かを考えることがほとんどできない。
自分がなぜこういう境遇にいるのか、本人にもわからないだろうと思う。

それで秋葉原の犯人の場合、
トラックという、大きな力をふるえるものに乗って交差点に突っ込んでいった。
「自分は流れ流れているが、これだけのことができるんだぞ」
と誇示するように。

これは、恨みや借金が殺人や傷害につながっていた昔の事件とは違う。
被害者と加害者に接点がない。不特定多数。
そういった暴力は必ず弱い人のところへ行く。逆はない。
子どもや、障がい者や、自殺願望をもった若者など。

そして、私たちが、起きた事件をどう解釈するか?
ということにも変化が。

実名がすぐ出る、顔写真がすぐ載る。
しかし
「こんなひどいことをやった奴は理解しなくていい、考えなくていい、隔離して抹殺だ」
という排除が基調になっている。

それはやがて、事件を起こしたわけでもないのに、生活保護を受けている人を攻撃するような空気にもつながっていったと思う。

もちろん、事件を起こした人間はけしらかん。ひどい。
でも、こういう犯人を作ったのはこの時代。この社会。
犯人を理解しようとすることなしに、
我々が生きている時代と社会を理解できるはずがない。

1970年代から「情報」という言葉が日常で使われるようになった。
情報とは、スマホで調べたようなこと。
右から入って左から抜けていくもの。
その瞬間だけ使えればいいもの。
情報は「知識」とは違う。

知識とは、自分で苦労して得たもの。
苦労して読んだもの。
足を運んで目にしたもの、話を聞いたもの。
実際に経験したこと。

情報ではなく、自分の中にある知識を使ってものを考えるというくせをつけることがとても大事だと思う。

事件を考えるとき、みんな被害者になることをおそれているが、違う。
加害者になることを恐れなければならない。
SNSフェイクニュースに引っかかっただけでも、炎上に悪乗りしただけでも、あっという間に加害者になってしまう。
そのブレーキを自分たちでどう作るのかを考えなければならない。