氷室冴子の少女小説は私を励まし続ける

2008年、彼女が51歳という若さで没してから十年が経ち、河出書房新社から出たムック本(なぜ集英社ではないのだ…)には、小説家・氷室冴子とその作品に関するエッセイや評論が多数収められている。

氷室冴子: 没後10年記念特集 私たちが愛した永遠の青春小説作家 (文藝別冊)

読んでいると自分も何か書きたくなった。年々、氷室冴子の小説から受けた影響の大きさを思っている。私のジェンダー観をつくり、人生観をつくった。

氷室冴子は主に集英社コバルト文庫で活躍。「少女小説」といわれるジャンルの旗手だった。

少女小説というものは、暴論かもしれないけれど、つきつめてしまうとジェンダーとの戦いであると私は思っている。女となっていくにあたり、どうしても避けて通れない問題ではあるが、少女にとって受け入れるのはなかなか難しい問題でもある。

と、やはりコバルト文庫出身で、今や直木賞候補にもなった須賀しのぶの寄稿にある。

読者である少女たちはジェンダーの概念など知らないのだから、作り手(作者や編集者、ひいては出版社)の見識や意思次第でジェンダーはいろいろに扱いうる。そして少女たちのジェンダー観は、親しんだフィクション作品に大きく左右されることになる。

執筆から30年以上が経つ作品でも、氷室冴子の描くジェンダー観に古さはまったくない。むしろ、日本においてはいまだに先進性をもっている気すらする。

それまで『赤毛のアン』にしても『若草物語』にしても、てっきり異国の生活描写や美味しそうな食べ物にばかり惹かれていると思い込んでいたけれど、つまるところ私を魅了してやまなかったのは、小説における身体性の強さだったのだ。

物語を貫く強烈な身体性は、氷室作品すべてに共通している。

 と小説家の柚木麻子は書き、氷室作品中、夜中にレオタード姿でドーナツを大量に揚げる『クララ白書』のしーのたちや、十二単を脱ぎ捨てて縁の下を這う『なんて素敵にジャパネスク』の瑠璃姫の例を挙げる。

私にとって氷室作品の身体性を代表するのは、「月経」だ。彼女の小説のほとんどすべてで、その不快感や、生理痛のきつさが綴られる。『クララ白書』には便秘の話もよく出る。「一週間勝負が決まらないからドーナツ型の座布団ちょうだい」なんて(笑)。

精神性のほうに目を向ければ、氷室冴子作品の女子たちは、基本的にかわいげのあるタイプではない。

雑居時代』の主人公数子は、優等生な外面と暴走する内面の落差が激しく、本来であればヒロインのライバル役になるような一癖ある性格に設定されている。(嵯峨景子)

雑居時代 I (集英社コバルト文庫)

数子という名前だけでも少女小説の主人公として異質な気がする(笑)。

氷室作品の中ではいわゆる普通の女の子に近いしーのも「ふん」と悪態をついたり、些細なことでカッカしたりする。『多恵子ガール』の主人公多恵子は、幼馴染の男子なぎさのことで嫉妬に嫉妬を重ねる。
あたしって、独占欲の強い、嫌な子なんだ」 もともと明るくておせっかいな学級委員タイプの彼女が、空回りし悶々として自己嫌悪に苦しむ姿は、少女小説らしくライトには描かれていても、胸きゅんなラブストーリーとは一線を画していた。

多恵子ガール なぎさボーイ (集英社コバルト文庫)

生理や、便秘や、悪態や、短気。嫉妬や自己嫌悪。この「めんどくさい」体と心を抱えて、氷室小説のヒロインたちはいきいきと動く。めんどくささを持っているからこそ、彼女たちは、記号性ではなく実在性を帯び、類型的ではなく個性をもつ。お話にとって都合のいい駒には決してならず、「めんどくさい私」らしい道を選び続ける。少女時代の私は、だからどきどきしながら読んで「私もこんなふうに生きたい。生きられるはずだ」と感じていたんだと思う。つまづきも葛藤も怒りもすべて本物で、だからこそ喜びも涙も輝く主体的な人生。

ジェンダーの観点では、氷室冴子のキャリアの初期において、ほぼすべてのパワーが少女たちを描くことにのみ費やされている部分も見逃せない。デビューのきっかけとなった『さようならアルルカン』や『白い少女たち』、シンデレラシリーズの2作は少女たちの繊細さや屈折をシリアスに描いた。

さようならアルルカン (集英社コバルト文庫)

ドタバタコメディ的に明るいトーンの『クララ白書』シリーズは、4作にわたって女子中・女子高の生活を描いている。考えてみれば、最近も女子高生を主人公にした映像作品(多くはマンガや小説が原作)は多いが、女子高モノのヒット作品ってあるだろうか?

クララ白書 (集英社文庫―コバルトシリーズ 52C)

クララ白書』は学校も女子中/女子高だし、主人公のしーのは寄宿舎暮らしだ。周囲は、同級生、先輩後輩、いずれも個性豊かな女子たち。宝塚の男役トップスターのように憧憬を集める先輩、リーダーシップある生徒会長、寮長にして影の生徒会長、実はヒステリックな麗人、お嬢さま育ちの変わり者、観察眼豊かなマンガ家志望、スポーツ万能で生意気な後輩、無口だけど実力ある後輩・・・

日常生活のいざこざも、学園祭のようなハレの行事も、女子たちだけで行われる。男性に見られる客体でない彼女たちは、なんて自由で、多様性にあふれていることだろう! これが女子の姿だと思う。

もちろん、この世の半分は男なのだから、女子のみの世界には安住できない。氷室冴子の小説にも、少しずつ男性が顔をのぞかせるようになる。その変遷も、見ていくと面白い。

初期の作品、『クララ白書』光太郎や『ざ・ちぇんじ』の帝は、作中ではいくぶん「添え物」っぽい。

いわゆる “ ヒロインの相手役 ” にもかかわらず、読者がキャーッと言いたくなるような魅力的なキャラとして描かれているかといわれれば甚だ疑問で、むしろ彼らはそのめんどくささで作中のハードルと化している。そう、氷室作品ではやはり男子も「めんどくさい」んである。とはいえ、初期から、家父長制的なマインドを持つ男子は決して相手役として配置されないことにも留意したい。男子なのに家父長制的なマインドで押し切れないからこそ、彼らの言動はめんどくさくなる。

この記事を書くためにあたっていた関連文献に、氷室冴子が「理想の男性像」として「コミュニケーションを信じている人。情報のつまみぐいではなく、自分の言葉や素直な感情で、ものをいえる人」との回答を見つけて、胸が熱くなっている。

実際、前述、“ めんどくさい男 ” 光太郎や帝も、作中のコミュニケーションを通じてヒロインの理解者になっていく。

めんどくさい女子とめんどくさい男子のコミュニケーションは、氷室冴子が小説家としてのキャリアを磨き、また年齢を重ね人生経験を積む中で(彼女は20歳でデビューしている!)、どんどん重要性と魅力を増してゆく。

代表作『なんて素敵にジャパネスク』には人気を博する男子キャラが何人もいるが、ヒロイン瑠璃姫と結ばれるのは高彬。

シリーズ初期の彼の名ゼリフは、「ぼくで、我慢しなよ」。お転婆なんて言葉にはおさまりきれないハチャメチャな瑠璃姫は、俺様キャラに手を引っ張られるでも、大人キャラにあたたかく見守られるでもなく、年下の朴念仁、焼きもちやきの高彬を選ぶ。高彬はハチャメチャな女に振り回されるが、瑠璃姫もまた男にイライラさせられる。それでも互いに、そのままの自分でいられて、めんどくささの奥にある相手の美点を愛しんでいるのである。

なんて素敵にジャパネスク (集英社文庫―コバルト・シリーズ)

シリーズが進むにしたがって、高彬も少しずつ成長。といっても、相変わらず焼きもちやきだし、キャリアを重ねるとともにいっそう融通の利かない仕事人間ぶりにも拍車がかかっているのだが、いざというときに、腹をくくってヒューマニズムあふれる行動をとることができる人物になっていく。やり方は違えど、それは瑠璃姫とよく似た行動原理で、2人はとてもお似合いでかっこよいカップルに見える。

続くシリーズ作『銀の海 金の大地』の佐保彦になると、めんどくささは極まる。
古代の王族に生まれた、生意気で傲慢な少年。最初はいいところがほとんど見つからないほどだ。彼は故郷の里を出て、さまざまな境遇の人と出会うことで、世の中を知り人を知り、そして自分自身と向き合うようになっていく。己の幼さや未熟さに気づき、大切な人を失い、運命を知って苦しむ彼は、ヒロイン真秀と並んでこの物語のもう1人の主人公といえる。

銀の海 金の大地 3 古代転生ファンタジー (古代転生ファンタジー/銀の海 金の大地シリーズ) (コバルト文庫)

シリーズ最終巻、15歳の真秀と佐保彦はおそらくたった一度の「共寝」をするのだが、そのシーンの静けさは出色。濃密で過酷な経験をあまりにたくさん経た2人は言葉を失って、体でコミュニケーションするしかなくなるのである。

同衾後、あんなにも傲慢だった佐保彦が真秀に言う。

信じてほしい。寝たのは愛しいからだ

そこで彼女が返す言葉がふるっている。

ばかね。それは私が言うのよ


氷室冴子は少女の内面を繊細にシリアスに描いてデビューしたあと、学園ものやラブコメ的な作風にシフトして広い人気を博するようになった。とはいえ、『なんて素敵にジャパネスク』は平安貴族のどたばたな日常をベースにしながらも陰謀と愛憎渦巻く宮廷サスペンスの要素が物語の推進力になっているし、続く『銀の海 金の大地』は舞台を古代に移してさらに激しい作風に転じた。

「私も自分の一番書きたいことを書こうと決心した。だから、何が何でも『銀の海 金の大地』を書くことにした」

と、当時、氷室さんから聞いた言葉には覚悟がにじんでいた

 と萩原規子がエッセイに綴っている。

このシリーズは『古事記』が下敷きで、史学や民俗学の資料にも多くあたって書かれている。当時の氷室冴子の文学観、古代観、人間観の結晶だと思う。ヒロインの真秀は、普通の女子高生でも平安の姫でもなく、古代の王族に使われる奴婢の身分だ。しかも病気の母と目や耳の不自由な兄を抱えているから、どれほど苦労するかは想像に難くない。

めくるめくこの物語は、古代という場を借りながら社会の普遍を描いている。激しく残酷で先の読めない世界。女や子どもは弱く、武器をふるい権謀術数を用いて勝った男が社会秩序を作り、負ければそれらは崩壊する。喜怒哀楽、憎しみやおそれ、哀れみや優しさ…人にはあらゆる感情がある。世の中とは、そのすべてのるつぼである。

時代性といったことも大きいのだろうが、今なら過激すぎて制止されそうな暴力的な描写が多く、登場する誰もが血まみれで、身分制社会のなかでの奴婢の扱いの残虐性を至るところで抉り出すなど、現在なら、少女小説という分野に置くことへの雑音も少なくないのではないかと心配になるほどである。それを許容した当時の出版状況や社会の寛容さ、大半を占めたであろう若い女性読者のしたたかな耐性と懐の深さ、豊かな理解力に、敬意と羨望を抱いた。

 という古事記の専門家三浦佑之の慨嘆に大いに頷くところだ。

氷室冴子の筆致には、残酷な場面へのためらいも、悲しい場面への自己陶酔も微塵も感じられない。よどみなく敢然と書かれている感がある。彼女は、自分が一番書きたいこととしてこの物語を書いた。それはこの物語がコバルト文庫を読む少女たちに届くのだ、彼女たちの心を打つのだと信じていたということだと思う。

その読者の一人が私だ。
激しい世の中を苛烈に生きる真秀、彼女が得ていく強さ。どんなに危ない目にあい、傷つけられ、虫けらのような扱いをされても決して傷つかない彼女の自尊心。母と兄のほかにも大切なものを見つけていく姿。読むたびに勇気づけられる。6巻に収められている章タイトル「心に金の砂をもつ」と「わたしという名の王国」が特に好きだ。

銀の海 金の大地〈6〉 (コバルト文庫)

あなたは心に金の砂を持っているんだわ、真秀。それは神々の雄々しい魂のかけらよ。けっしてくじけない勇気をもつ者のことよ

忘れるな、真秀。ヒトはだれでも、われという名の領土をもっている。そこには王と奴婢が共棲みしている。みじめに生きるのも、誇りかに生きるのも、心ひとつだ。いのちあるものは必ず死ぬ。だったら王として生き、王として死ね

血がつながらない部族の里で暮らす奴婢の真秀も、平安貴族の常識から著しく外れた瑠璃姫も、社会のはみだし者だ。世の中は複雑で理不尽で、安楽に生きてはいけない。はみだし者ならなおさらである。
けれど世の中の秩序やシステムを作ったのは誰? それは本当に正義なのか? 世の中におもねって生きて幸福になれるのか? かんたんに割り切れない人の心を正義や理性で断罪することができるのか?

氷室冴子の小説は、少女だった私にさまざまな示唆をくれた。めんどくさい心と体をもち、生き生きと動くヒロインたちを「これは私だ」「私はこうなりたい」と思わせてくれた。世の中は大変なところだけど、私はちっぽけでめんどくさい私のままで、格闘して生きていく。きっと生きていける。あたたかな思いが通じることもある。女の子同士はもちろん、男の子もコミュニケーションすべき存在である。氷室さんの書くものすべては少女たちへの祝福だった。

エッセイやインタビューで見られる彼女の様子も好きだった。彼女は気さくで磊落で、教養があるけどミーハーで、好きなものにキャーキャー言ったり熱情をこめて語ったりしていた。母親とのいざこざやビンボー時代など、さほど楽ちんに生きてきた様子でもないけれど、それらも笑い飛ばすような強さを彼女に感じていた。少女だった私にとって、「お母さん」とも「先生」とも「アイドルや女優」とも違う、大人の女性だった。

いろんなインタビューや対談、書下ろし企画などをおさめたファンブックは、生前にも出版されたことがある。彼女が活躍していたコバルト文庫が作り、大々的に売り出されたもの。そのタイトルは『ガールフレンズ』という。少女たちや、かつて少女だった女性たちのために書き続けた人だった。

ガールフレンズ 冴子スペシャル (コバルト文庫)