『風と光と二十の私と』 坂口安吾

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風と光と二十の私と (講談社文芸文庫)

Twitterで「美しいと思う小説のタイトル」というタグがちょっと流行った。
坂口安吾の『風と光と二十の私と』を思い出して、久しぶりに読み返したら、この美しいタイトルとは裏腹に、クッソろくでもない内容だった(笑)。知ってたけど。

クッソろくでもないけど、やっぱりキラキラしている。目がくらんで涙が出てくるようだ。
私は自分自身が20歳くらいのとき、この随筆が本当に好きだった。
安吾のろくでもなさは、私を芯から慰め、力づけてくれた。

サニー安田さんが20代のころの私を称して「やさぐれていた」という(反論できない)。会社では一部に「無頼派だもんね」と揶揄されていた。酒乱と同義語かもしれん。

若い頃の鬱屈を、文学という器は大きく大きく手を広げて受け止めてくれますね。無責任に煽るともいう(笑)。
私は太宰より安吾が好きで、というのは、太宰のろくでもなさより安吾のろくでもなさのほうが好もしいと思っていたのだ。
芥川も大好きだったけど芥川は天才的で、私なんかが「好き」というのは恐れ多いと思っていました。この屈折w

『風と光と二十の私と』は、20才でやっとこさっとこ旧制中学校を卒業した安吾が、当時はド田舎だった下北沢の小学校の分校で、教員をしていた時代を綴った随筆。

これが本当にろくでもない。たとえ「元」教員として書いたものだろうと、今なら炎上必至、親からの批判殺到、安吾先生は謝罪会見に追い込まれるところである。

でも読み返してつくづく思った、

このろくでもない随筆をキラキラさせているのは、安吾の子どもたちへの愛情だ。
子どもたちのかわいらしさというより、
ずるさ、ひ弱さ、頑固さなどをこそ、心から愛している様子がにじんでいる。
愛情であり憐憫であり畏怖でもある。
幻のような儚さを感じてもいる。

それらはすべて、大人たちのろくでもなさと対比になっている。
その過渡期としてチラリと登場する、戦争から帰ってきた若者たちの姿も印象深い。

(というか、二十才の安吾自身が子どもと大人との過渡期の存在で、「風と光」とともに回顧されているところに、安吾という人の存外ロマンな文学性を感じるわけですが。)

小学生の親になった今の私。
安吾の子ども観にかなりシンクロする。
いや、自分が若い時にこういう文章を愛読していたから、自然と、そういう子ども観が身についていたのかな。

安吾はもちろん『堕落論』もいいし、
『私は海を抱きしめていたい』も好きだったが(今読み返したらジェンダー的にどう感じるだろう・・・今度やってみます)、

『信長』という作品があって、これが実にいいのです。
若き日の信長。心胆情けないのにカラッとして、颯爽と桶狭間に出ていく。
安吾の理想だったんだろうなあ。

追記:

「私は海を抱きしめていたい」も読み返したけど、ジェンダー的に何の問題もなかったw ただし内容は、PTA的な視点からいうとろくでもないです(笑)。でもやっぱいいー!

てか、「文豪」といえば何だか偉い人みたいだけど、考えてみたらこの時代、マッチョさを感じる小説家や詩人って一人もおらんような。
漱石がDV、白秋がクズなど枚挙にいとまはないにせよ、それがマッチョかというとなんか違うんだな。いや、家族はほんと苦労しただろうけど。
ていうか、DVもダメんずもやっぱり加害者の弱さや不安からくるんだなと近代文学文学史を見るとめちゃくちゃよくわかるかも!!