『想像ラジオ』 いとうせいこう / 大震災を経た世界に
2013年3月に単行本が刊行。その頃から気にはなりつつも、なかなか手を伸ばせなかったのは、やはりこの小説が「震災」それも「死」を扱っていると書評等で知っていたからだ。そういう物語に飛び込むには、何か「エイヤッ」という気持ちが必要だった。読み終わった今、思うのは、「私のような人にこそ読んでほしい」ってこと。
想像ラジオのDJ、アークは、大きな杉の木の上のほうの枝にたった一人ひっかかっている男だ。そのさらにてっぺんには、1羽のハクセキレイがじっと留まっている。そこは基本的に、しんとした淋しい世界。けれどラジオだから音楽が流れる。読者はアークが紹介する曲を知らなくてもいい。知っている曲や知らない曲が流れて、DJが親しげにしゃべっていて、時折リスナーの声が紹介される、そんなラジオ番組の雰囲気を想像すればいい。この小説は「想像ラジオ」だから。
木の上から、DJアークは様々な思念を四方八方に飛ばす。木の上の男のもとに、様々な思念が集まってくる。そのほとんどは、死者のものだ。
番組は2011年3月11日・・・いや、その翌日?に始まった。大波にのまれ我が身に何が起きたのかわからず呆然としていた人、出口が閉ざされ無明の闇に取り残されて途方に暮れている人、部屋の片隅でうずくまっている人、そして木の上にひっかかる男を目撃した人・・・。彼らはあの日起きたことを語り、あるいはそれまでの己の人生や、はるか昔の伝聞も語る。
数は少ないけれど、それらの声に耳をすませる生者もいる。はっきりと聞こえて自分もまた応え、祈る人。ざわざわとノイズ交じりで聞こえている人。耳を傾けて、聞こえそうで聞こえない人。もしかしたら聞こえているのかもしれない人・・・。共通するのは、大切な人を亡くした人、超人的な力で死者の声を聴き続けてきた人、みずからが死に近づいている人など、死への近さである。
一方で、自らの意思で耳を閉ざす生者もいる。同じく東北で積極的なボランティア活動をする若者たちが、「死者の声を聞くべきか、聞かざるべきか」と帰りの車中で議論するシーンには胸を掴まれた。リーダー格のナオは「そんなもの、聞こえるわけがない」と言う。非科学的だと笑うわけではない。
「おまえたちには帰る場所がある。家に戻れば安全で快適な生活があるじゃないか」
と、支援する相手にも、ましてネットの無関係な人間たちにも叩かれ、軽蔑されるのがボランティアの仕事。そんな中で、自分たちにできるのは、ただ黙って生きている人の手伝いをすることだけ。死者の声が聞こえるなんてのは、自分が役に立ちたいという身勝手な要求だ。亡くなった人、亡くした人の苦しみなんて絶対わからない。それをわかろうとするのは傲慢だ、・・・・と、ナオは言う。
それは、震災よりずっと前からホームレス支援をしてきた彼が、長年のボランティア活動を通じて身につけた感覚。ナオは、一生懸命動いて、それでも届かなかったり摩擦があったりという経験の結果、耳を閉ざしているのだけど、でも彼は現場を知っていて、少なくとも、苦しむ生者の声は山ほど聞いてきた人間である。
問題は、ナオが言うような言葉を、遠くにいて、当事者でなく、直接的に考える必要のない大多数の人間が、「現実的な正論」として受け容れてしまうことなんだろうと思う。作者のいとうせいこうは、どこかのインタビューで、この章を
いつか、震災を知らない世代が「私たちは無関係だから語る資格がないと思ってはならないため」
に書いた、と語ったという。
作者は小説の中で生きている登場人物たちに語らせる。「亡くなった人が無言であの世に行ったと思うなよ」。苦しみや恐怖、怒りや悔しさ、心残り。伝えたかったこと。彼らには山ほどあったはずだ。その声に耳を傾ける気がないなら、どんな行動をしても薄っぺらいものになるんじゃないか。
「死者と共にこの国を作り直して行くしかないのに、まるで何もなかったように事態にフタをしていく僕らはなんなんだ。この国はどうなっちゃったんだ。」
「亡くなった人はこの世にいないから、自分の人生を生きるべきだ。まったくそうだ。(中略)でも、本当にそれだけが正しい道だろうか。亡くなった人に声に時間をかけて耳を傾けて悲しんで悼んで、同時に少しずつ歩くんじゃないのか。死者と共に」
そう、死は震災だけのものではない。病気や、事故や、老い。遠いクロアチアの紛争地域や、70数年前の戦争。地図を広げ、時間軸を伸ばしながら、作者は死を敷衍する。たくさんの時代の、無数の死。やがて自分に訪れる死。死の当事者でない者などいない。
「魂魄この世にとどまりて」。作者はその概念を、木の上でとりとめもなく喋る、なかなかろくでもない人間だったらしい男と、身じろぎもしない1羽のハクセキレイに象徴させる。そしてその周囲におびだたしい数の死者を配する。DJアークはたくさんの朋友に向かって語り、彼らの声を聴き、彼らに励まされて、もっとも聞きたかった声を聴く。このラジオが聴けないはずの、境界線の向こうにいる彼らの声を。ハクセキレイが美しい飛び方で、迷いなく一直線に彼方へと飛び去って行く。
死者は願っている。自分の声を聴いてもらうことを。愛する人の声を聴くことを。見つけてもらいたくて、とどまっている。どこにも行けない。死者と生者が目を凝らし、耳を傾き合えば、死者は自由になり、鳥のようにあちらとこちらを行き来することができるだろう。
息をつめたり、泣きながら読んだところもたくさんあるけれど、何かとても大事な深淵をのぞいたようで、本当に読んでよかったと思った。読むのがつらいという人もいるだろうけど、この小説で癒され、救われる人もきっと多いんじゃないかと思った。震災の当事者であったり、身近な死の痛みを抱えている人ほど、そうなんじゃないかと。
同時に、これを読み終わったあと(9月下旬)、ちょうど衆議院が解散したころで、ニュースで希望の党だとか国難突破解散とか政局をやってるの見るとあまりにしらじらしくて、震災であれだけの命や地域や生活が失われたという悲しみと怒りを経た世界なんだろうかこれが? と、信じられない思いがしたことも書き残しておく。