『春になったら苺を摘みに』 梨木香歩

 

春になったら苺を摘みに (新潮文庫)

春になったら苺を摘みに (新潮文庫)

 

 

ひと月ほど前の旅行に携行して3年ぶりくらい?に読んで、ところどころ涙して、今これを書くためにもう一度パラパラやって、また泣いているという・・・。

思えば20代半ばでこの本を読んだことは私にとってものすごく大きい。というか私の人生の10冊に入るかも。これまでにもう何度読み返しただろう。梨木さんの著作に見える生き方は「思索と行動」で、洋の東西を問わない歴史や自然科学への深い造詣を根っこに、さまざまな場所へゆき人と関わり合って感じる。考える。深いコミットメント。そう簡単に真似できることではないけど、そんなふうな大人になりたいなあと私は思った。

20代の頃の私には、ウェスト夫人が下宿させたり面倒を見たジョーや、イヤビや、ハイディの物語が印象的だった。ウェスト夫人は、寛容で博愛精神あふれるチャーミングな人(皿や体を石鹸で洗ってもすすぐことをしない、という英米人のやり方をからかわれても、「それが何か?」とわざと噛みつくように言って澄ましている・・・というエピソードが昔から大好きだった)というイメージで、要は、いつでも優しくて素敵なお姉さんだった。

私はいつも、筆者を含む下宿人たち、ウェスト夫人に庇護される人々の方に感情移入していたんだと思う。それが今回の再読では、「子ども部屋」や「それぞれの戦争」の章が屹立して見えた。

ウェスト夫人がいかにして成ったか、とでもいおうか。彼女の父親の話、夫の話、その人との離婚の話・・・ウェスト夫人にまつわるストーリーを読んだあとで、この本が書かれるころ80歳になろうとする彼女の姿・・・著者と共に過ごす家でパール・ハーバーの番組を見てひどく動揺したエピソードや、何時間も遅れた飛行機の到着ロビーでずっと筆者を待っていたエピソードに泣かずにいられない。

どこもかしこも分断が広がるいっぽうに見える世界で、今この本はますます響く。

初めて見る黄色人種である筆者に、言葉がわからないから精一杯の笑顔を見せ続けたドリーが、赤ん坊のころから仕えた主人をかばうために、離婚した妻であるウェスト夫人を貶める噂を流した話。

筆者がモントリオールから乗った列車で車掌から受けた扱い。また、『赤毛のアン』でモンゴメリが残した日記や、著作の中にも随所にみられるもの。それは、ネイティブカナディアンや東洋人への明らかな偏見。それと裏返しの、自分につながるものへの過剰な賛美。容易にナショナリズムに結び付くもの。

どんなに心づくしの世話をしても、文化のまったく異なるナイジェリアのイヤビたち家族や、コソボの難民であるカマラ姉弟たちには響かないこと。それどころか、こちらの文化や良識では耐えがたいほどの仕打ちを返されること。

自閉症スペクトラムと思われるジョン。96才、徘徊し同じ話を繰り返すジュテム。小児まひと重い聴覚障害を持つムキ、その両親。イスラエルという国。

分断や、理解の難しさはどこにでもある。理解しようと思って勉強したり行動したりすればするほど、打ちのめされるような大きな亀裂がぱっかりと広がる経験をする。

そこまで書かれているから、「それでも人はつながりたい。共感したい。うちとけたい。納得したい」そのことにかける筆者の思いに打たれる。そしてそのための鍵はやはりウエスト夫人で、

「理解はできないが受け容れる。ということを、観念上のものだけにしない、ということ」

 
という彼女の姿勢に、読者である私は頭のてっぺんから貫かれるような厳粛の念を持つ。「観念上のものだけにしない」ここが重要で、ここが難しいのだよね・・・。

終章、2001年のNYテロとその後のアフガニスタン爆撃の時期に、老ウェスト夫人が筆者に書いた手紙。その中にある「また一緒に庭でお茶を飲みましょう。春になったら、苺を摘みにいきましょう」という一連のくだりは、「それでもつながりたい、それを理念にだけしないで実践する」彼女の象徴なのだろう。