今さらですが 『カルテット』

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感想書いてなかったけど満喫してましたカルテット。第1話の唐揚げレモン&イッセー尾形のエピソードのめんどくささと不穏さに、「私このドラマついていけるだろうか・・・」と一抹の不安を覚えたのですが、めんどくささと不穏さのピークは1話でよかった、ちなみにこのパターンは、同じく坂元裕二脚本の近作『問題のあるレストラン』と同じです(個人の感覚です)。

放送前から、番線CMでは「嘘」というモチーフを前面に出していました。
カラオケボックスでの出会いは作為にまみれていて、真紀以外の他の3人は少なくとも自分は偶然の出会いを装っていることを知っていた。それを「運命的な出会いをした」と思い込んでいた真紀は、当初、夫と仲良く暮らしているふりをしていたし、その嘘を1話の段階で打ち明けたあとも、自分が「巻(早乙女)真紀」という人間であると偽り続けていた。

そして1話で、「余命5年のピアニスト」というイッセー尾形(役名忘れました)の嘘を暴いたのは真紀だった。「ちょっとひどいんじゃない」という雰囲気の他の3人に、真紀は「音楽を続けるために嘘をつく。その実、みじめな生活をしている。そんなイッセー尾形は未来の自分たちの姿、だから同情してるだけだ」と看破してみせる。

夢を追う人生の怖さ。それは、「自分の本当の思いに正直に生きる人生の怖さ」って言い換えてもいいのかもしれない。

すると、「夫によって生活も愛情も得ている真紀が夢を追う人生のリスクを語るなんてちゃんちゃらおかしいわ(←懐かしの鈴鹿さん@あまちゃん)」的なことをすずめが言い、真紀は夫の失踪を打ち明けるのだった。だから、みんなと音楽をして暮らしたいのだと。

「音楽をして暮らしたい」その思いに辿りつくまでに真紀が何を経てきたのかは、のちに現れた夫によって語られる。

ここで、夫がクドカンっていうのがさー!もう、斜め上すぎてさー! しかもこのクドカンがほんっとうにハマり役でさー! プロのキャスティング能力ってすごいよね、と感嘆しきりでした。『アナ雪』をあれだけ情熱的に、見事な声量で歌い上げた松たか子と、小ネタをちりばめた大量のセリフを書くことで有名な脚本家宮藤官九郎の、“声の小さい夫婦”! クドカンが5話のラストに出て来て、「夫ってオマエか!!」ってなったとき、最高にみぞみぞしました。

閑話休題。真紀はずっと、普通の暮らしがしたかった。それを願って戸籍を買い、夫と結婚した。仕事なんてしなくていい、音楽もいらない。会話はくだらないテレビ番組やご近所さんの世界に終始。そんな真紀に夫は物足りなさを感じ、やがて失望していくのだけれど、それこそが真紀が願った平凡な幸せだった。

物悲しいのが、「ありあまる才能を持っているけど、それを押し殺してでも普通の暮らしがしたい」じゃなくて、本当に才能がないところなんだよね。夫がすすめる詩集や映画の価値が、真紀にはさっぱりわからない。好みが合わないとかではなく感性が乏しいというか。それは音楽の才能にももちろん結びついている話で。

夫はちょっとした業界人で、要はちょっとだけ一般人より鋭いアンテナを持っていたため、あまりにも平凡な真紀との生活に閉そく感を覚える。真紀が何より欲しかった平凡な生活は夫には恐ろしい監獄だったという悲劇。でも、もしかしたら、真紀が嘘をついていたからダメになったのかもしれない。のちに、なぜ真紀があんなにも“普通の暮らし”にこだわったのか知ったとき、彼は慟哭する。はじめからそれを知っていたら、違う感じ方をしたのかもしれない。

いや、違うね。真紀のそんな人生を一緒に背負えるような器を持っている人間じゃなかったね、あの夫さんは。会社辞めちゃって、失踪しちゃって2年もふらふらしたあげく、軽犯罪を犯して、それでのこのこ真紀の前に自分から姿を現すような、あの夫さんだから。でも器の小ささも罪じゃないんだよね。才能がないことと同じくらい、しょうがないことなんだと思う。人は自分の器で生きていくしかない。

そう、人は結局、自分として生きていくしかない。それは難しいけど、楽しいことだ。数々の嘘をちりばめたこのドラマは、結局そこに辿りついたのかなって思う。

才能もないのに夢を追う怖さ。
仕事とか家庭とか、みんなができてる現実に適応できない、うまくできない自分。
“志のある三流は四流”。



それでも彼らは嘘ではなく本当の言葉で話すようになり、本当の自分で生きるようになった。
ラスト前の回、偽りの名前で生きてきたことを打ち明ける真紀をすずめが止める。「いい、いらない。聞きたくない。私が好きなのはこの真紀さん。それが真実。信じる?」 
レモンをかけてしまった唐揚げはパリッと感が永遠に損なわれてしまうという “不可逆” が、ここで覆される。
「音楽は前に進むだけ。好きになったら、人は過去から前に進む」。

音楽を奏でるように彼らは生きる。その音楽に才能なんてかけらも宿っていなくても。音楽が好きだから、カルテットの “穴のあいた” 人たちが好きだから、彼らと共に音楽を奏でながら生きる。

じゃあ、いつ、なぜカルテットを好きになったのか?と言うと、それはいつのまにかなんだよねえ。いっしょにごはんを食べて、喋って、B級映画を見て、ゴミ溜めて、同じシャンプーの匂いをさせて、並んで歯磨きして。名前を偽っていようと、過去を隠していようと、繰り返される日常の中に、その人の真実はこぼれていた。その人のかわいさも、面白さも、怒りや悲しみも。嘘をついているようで、ダダ洩れだった。

でも人は、自分自身の「ほんとう」に気づくのが難しかったりする。だから、不動産屋とか割烹ダイニングとかで真面目に働いてみたり、さびれかけた団地での孤独な暮らしを“身の丈に合っている”と思い込んだりする。そして、そっちのほうが安定していて、まともな人生のように思えたりする。もしかしたら、真紀が夫と平凡な暮らしをしたいと願っていたのも、思い込みだったのかもしれない。自分でも気づかないくらいくらい心の奥底で、音楽をして暮らしたいという思いは、ずっとあったのかもしれない。

最後に彼らはカルテットドーナツホールを選ぶ。

生活を支えていた別荘は売りに出されてしまった。小さな仕事のために出かけてゆき、見事に迷う。たどりつけるかどうかわからない。ワゴンの中で歌われる主題歌『おとなの掟』のテンション! 美しく着飾りメイクアップして、済ました顔で歌われるエンディングを覆す。家も、たぶんちゃんとした職も失ってテキトーな格好で、でも心底楽しそうに笑ってる。虚飾を剥ぎ取った姿。

1話で真紀に“夢の沼に落ちたキリギリス”と称されたイッセー尾形は、余命5年と偽ってた。彼らは最後に夢の沼に落ちたけど、嘘はない。本当の自分で笑ってられる。でも、なんたって才能がないんだから、笑ってるうちに、ほんとに5年で死んじゃうのは彼らのほうかもしれない。

行先はわからない。家森からすずめ、すずめから司、司から真紀への恋心がどうなるのかわからない。秘密はまだ残っているのかもしれない。山本あきこじゃなく真紀のままでいる彼女は今も欺瞞の人生を送ってるのかもしれない。何が本当で何が嘘なのか、何が正しくて何が間違ってるのか、簡単に白黒つけることじゃない。夢の沼にみずから落ちる人生はチョロくない(有朱は最後まで「○○さん、好き!」と最後まで嘘の言葉を吐き続けた。そんな彼女の人生はホントにこれからもチョロいんだろーか? でも、彼女にとってはあの嘘の言葉が真実なのかもしれない)。

灰色の未来を彼らは生きる。



有朱といえば、最後、あの店が割烹ダイニング「のくた庵」って、明らかにダサくなっちゃったのがすごく面白かった。でも、そのダサさと暖かさが、八木亜希子とサンドイッチ富沢が演じた夫婦の本質なんだよね。「ダサいくらいなんだよガマンしろよ!」って、『あまちゃん』の名ゼリフが思い出されます。クドカンもキャストだっただけにw

吉岡里帆って、この2年くらいで『あさが来た』『ゆとりですが何か』そしてこの『カルテット』と3回見たんだけど、それぞれがハマり役、代表作に見える! そしてEテレ子ども番組「おはなしの国」でひとり5役くらいを演じた「桃太郎」もすごく良かった。もしかしたら彼女はすごい女優なんじゃないでしょうか。

松田龍平がいながら、フェロモン担当が高橋一生だということに、時の流れを感じます。2016が星野源イヤーだったとするならば、2017はついに高橋一生イヤーですよね。高橋一生、「めんどくさセクシー」な地位を確立したなあとしみじみします。大河のほうでも今それやってます。でも私、高橋一生のフェロモンには何故かそそられないんですよね。「ったく、めんどくさ!」って言いながら愛でるのが好きです、高橋一生は。ちなみに私が最初に高橋一生を認識したのは2007大河『風林火山』、めっちゃいい役でしたのよ!! あ、この話始めたら止まらなくなるので自重します。またどこか別の場所で。

そう、高橋一生@カルテットで私が一番ぐっときたのは、タクシーに乗って行ってしまう息子に手を振る笑顔からの泣き顔。すっごくうまいんだなあ、と泣いちゃいながら息をのむ感じだった。あの回もすごく良くてね。息子くんの「ねえ、離婚っていつ終わるの?」は涙腺崩壊させるセリフでした。

家森と有朱のシーンの気持ち悪い気持ちよさ、クセになったなあ。最後、クドカンに遺体遺棄されようとして逃げ出し、家森と再会するくだり、その後の車中で氷りつくような目でテンション高く盛り上がるふたり、最高だった。

松田龍平にええとこのボンボンが似合うという発見。でもエンディングテーマでは眼鏡を外しネクタイをゆるめエロさ満載の演出をしてくれて、スタッフの“わかってる”感がすごいよ!!! ありがとう!!!!!

そしてなんといっても松たか子ですよ・・・。

満島ひかりのすばらしさは、もはや当然のこと。『それでも、生きてゆく』『Woman』『ごめんね青春』『ど根性ガエル』『トットてれび』と、有難いことに毎年のように、彼女のすばらしさをテレビドラマで目撃できています。坂元裕二脚本との相性の良さは言わずもがな。

そこへいくと松たか子のガチの演技ってのを毎週堪能できたのは、いったいいつぶりでしょうか。テレビドラマで見ること自体、2014年、オムニバス形式の連ドラだった『おやじの背中』で1話を飾ったとき以来かな。ちなみに、あれ2話は満島ひかりだったな、そういえば。1話も2話もすばらしいクオリティだったのよね。

そう、巻真紀。
明るくもあり、暗くもある。かわいくもあり、怖くもある。融通きかないとこもあるけど、ユーモラスでノリがいいとこも。おばさんのような、少女のような。ミステリアスなようで、平凡。静かで、激しい。そんな、「白黒つけられない」っていうか、白から黒までのラインを自由自在に行ったり来たりする究極のグレーな役を、こんなにも軽やかに、見事に演じきってみせてくれました。本領発揮であり真骨頂。こういう松たか子が見たかったんです!!!!! ありがとうございます!!!!!!

ラスト前の回のクライマックス、「信じてほしいかほしくないか、それだけ言って」とすずめちゃんに迫られて、それまでとても静かだったのが「信じてほしい・・・!」と激昂して泣き出す場面、すんごかった! 舞台見てるみたいだった。あと、クドカンが失踪した翌日のパーティで撮った写真の笑顔・・・。すごい・・・。あの顔何度見てもゾクッてする・・・!



嘘かほんとか、恋が実るのか実らないのか・・・みたいなドラマかと見せかけて、結局は「♪自由を手にした僕らはグレー」っていう歌詞の通りになりました。さすが椎名林檎! 


世界(もちろん日本含む)が排他的なムードに覆われ分断されてるからこそ、この数年の創作作品では
「白か黒かの二項対立の罠に落ちちゃいけない」
「人間の凹凸・完ぺきでなさの肯定」
っていうテーマが多く扱われてるんだろうなーと思ってる。

そういう書き手の筆頭であるクドカンが(『ゆとりですが何か』)、やはり「グレーを礼賛」したこのドラマに出演したって、本当に面白くもあり、必然のようでもあり。