『夏目漱石の妻』 最終回

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ずっと書きそびれていたのだけど、↑の講演会のすばらしい内容とすばらしいまとめを読んだら興奮が蘇ってきたのでざっと書く。

以下に、ドラマ見た翌日のツイートも再録。








房子が「人には個性がある、女にもある、鏡子さんを見ていてそれがわかりました」と言う。「?」という顔の鏡子とバツの悪そうな漱石、そして娘時代を終え嫁ぐことが決まった房子の若く生き生きとした表情など、それぞれに素敵ですごく好きな場面なんだけど、房子の言葉自体には、そのときはあまりピンとこなかった。

鏡子は確かに強い女性だけれど、ようは一家の主婦であり、夫に忍従する(或いは母性豊かにすべてを受け容れる)妻で、わざわざセリフで言及された平塚らいてうの如き「新しい時代の女性」とはちょっと違う気がしたのだ。

それが、ラストシーン、鏡子が「『坊ちゃん』のキヨは私でしょ?」と言い出し、漱石が笑うやりとりで、何だかいろいろつながって、腑に落ちた気がする。(てか、このエピソードは原作なり、巷説なりにあるのだろうか? キヨさん=鏡子説。)

鏡子の本当の名は、鏡の一字で「キヨ」という。鏡の占いを信じて漱石と結婚した鏡子だが、鏡とは鏡子そのもので、(もちろん鏡子にとっては占いなのだが)つまり彼女は己に問い、己を信じて漱石を選び、添うてきたということではないだろうか?

病室で結婚を後悔しているのだろうと言われた鏡子は、「占いを信じている」と答える。時々は迷うけれど信じていると。鏡子にとっては占いだけれど、その本質は、「時々迷いながらも自分の選択や意思を信じている」ということなのでは。

夫を愛し、夫を信じてついてきたのではない。鏡子は、夫を選び、夫を愛する「己」を見つめ、「己」を信じて生きてきたのだと思う。妻は夫に従うという、前近代的な価値観じゃないということ。そこに鏡子の屹立する「個」がある。だから、殴られても、愛されていないかもしれなくても、抑圧されない。疲れたり泣いたりすることがしょっちゅうでも、変わらず強い。その姿を称して房子は鏡子の個性と言い、そこに新しさを見たんじゃないかな。

美しい壇蜜なんかと違って(出番は一場面でも、本当に婀娜で良かったね、壇蜜)、小説には書いてもらえなくても、「自分はキヨさんだ」と言って納得してる。坊ちゃんの美点を理解し、彼を誰よりも愛しその孤独に寄り添い、同じ墓に入りたいと懇願する人。(このドラマ中の)漱石は、多分そんなつもりで書いてないと思うんだけど、鏡子は勝手にそう言い張って満足げな顔をしている。「私は愛されてきたんでしょうか?」そう尋ねて泣くこともあった。でも鏡子は結局、自分がこうだと思えばそれで納得、それで満ち足りるのだ。相手ありき、(夫が上、妻が下のような)前近代的価値観ありきでの自己認識じゃない。

キヨさん=自分説を唱える鏡子に対して、漱石がはじめ、「君は、どこまでも、君だね」と応えるのは、そんな鏡子の「個」を彼も認識し、肯じているのを示したセリフだと思う。「そういうことにしておこう」は、彼女の勝手な思い込み=「個」を尊重する思いがあるということ。こういう鏡子だから、漱石はやってこられたんだろう。

最終回のラストシーンでそんなことを思ってたので、前掲のリンク先、脚本家の「漱石夫妻の捉え方」を読んで、うんうんと頷いた。

神経症のヒステリーを起こしまくる漱石、それをいなす鏡子。実家の父に向って言った「夏目と毎日戦っているんです」を聞いて、ちょうどその頃読んでいた、『村上春樹河合隼雄に会いに行く』で村上が書いていた

夫婦とはお互いの欠落を埋めるものじゃないかと思ってきたけど、最近になってそれはちょっと違うのかなと考えるようになりました。それはむしろお互いの欠落を暴きたてる過程の連続に過ぎなかったのではないかと。


を思いだした。ラストシーンの穏やかさはひとときのことで、漱石と鏡子の生活にはまた嵐が訪れるんじゃないかと思う。何度も何度も。己をさらけ出して傷つけ合ったり疲れきったり折れたりしながら、でも根っこのところでは曲げず、譲らず、屹立した己と己で生きていく。2人はそんなふうに生きて、そしてそんな生き方は「明治という熱い時代を共に生きぬく」ことでもあったってことかな。

やはり屈折した生まれ育ちで、社会主義的な理想を掲げつつチンケな振舞いに終始する荒井は対照的で(しっかし満島真之助、怪演だったのではないでしょーか!)、小説みたいな素敵な家庭なんて遠くても、欠点だらけで無様で満身創痍でも、自分を見つめ、自分をもって相手とぶちあたる。何か確かなものが生まれるとしたらそこからでしかありえない。・・・なんて、漱石ってホントに現代とも全然つながるのかもしんない。