『真田丸』 最終回

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最終回!

10分拡大してなお、予想よりもずっと、多くを語らない最終回だった。きりちゃんが生き残るとか最後にわかりやすい奇跡が起こるとか、全然ない。私はしばらく呆然としておりましたよ。




ご都合主義が見え隠れしてでもハッピーなエンドになって、「よかったよー、君らが幸せならそれが何よりだよ」と思える最終回も好きなんだけど、こんなふうに、見終わったあとエエエーとなってすぐに消化できず、あれこれ考えて、徐々に自分なりに納得していく最終回も好き。

私には源次郎が負けて自害して死ぬ、というのが(それが史実だとわかってはいても!)やはり悲しかったんだと思う。内記や作兵衛も死んでしまった。しかも、大助や茶々や秀頼は源次郎によって生殺し状態で死を待っているエンド。きりちゃんの行方はわからない。そんなの哀しすぎるだろ!!

…と、思ったのだけど。

↑視聴終了後、1時間半w 

絶対に勝つ、命が惜しいと豪語していたのに切腹するって何ぞー! と現代人な私は思いものするのですが、やはり矛盾はないのだろうと思います。絶対に勝つという強い意思があればこそ、あんなふうに家康本陣まで切り込んでいけたわけで、「家康の首を獲るまで命を惜しむ」ということだったんだろうし、他の味方にむやみに死んでほしくないという気持ちも本当だったと思う。

でも、実際の戦は相手がいるわけで、意思だけでは勝てない。寺に逃げ込んだ源次郎と(佐助も)満身創痍だった。観念するふりして拳に隠した凶器でやる「けんか戦法」は昌幸譲りで、「おいこら真田ぁぁぁぁ!」と叫びましたが(もう褒めてるのか貶してるのか呆れてるのか自分でもわからない気持ち)、あれが、振り絞った最後の力だったんだと思う。もう腕が全然きかないようだったし、足も悪そうだった。あれでは逃げられない。一歩出れば、残党狩りがうようよしてるんだろうし。それは徳川軍だけじゃなく、第一話で出てきたように、農民たちだって、持ち物を奪ったり褒賞金欲しさで、武装して敗者を狙っているのだ。

それでも逃げ回る、という意識はやっぱりないんだと思う。信繁の目標は家康の首だけだった。それは失敗し、この体ではもう狙えない。そして彼は己がしたい戦をするために、たぶん大勢の兵たちを死なせている。あとは自害するしかないんだと思う。そのときに、笑った。このための堺雅人キャスティングか!!という説得力のある笑顔だった。







私はね。特に源次郎が大好きってわけじゃないと自分で思ってたの。信繁はドラマの狂言回し、いろいろな人物の「受け」役であって、だから堺さんなんだろうな、さすがにうまいよな、でも信繁って何をするでもないし割とポンコツだよね(特に女関係)、と思ってきた、はず。

でもここ数回、源次郎が死ぬと思うと暗い気分になってたし、切腹するんだーって思ったらむちゃくちゃ悲しかったんだよー! 私、実はことのほか源次郎が好きだったみたい。死ぬのが悲しいってそういうことだと思う。家族や友達…好きな人が死ぬなんて、どんなに「希望のあるラスト」であっても無条件に悲しいよ、死ぬときは。死んでほしくない、ずっと生きててほしいよ。

でも、少し時が経ち、死の事実は覆せない、となったときに、その人を「死んじゃって悲しい」という側面だけで捉えるのではなくて、彼が生きていたことを肯定したいと思う。彼の死ではなく生を深く考えたいと思う。近しい人の死ってそういうものじゃないかと思う。一年間、ドラマを見て、誰かの何十年かの人生とその人の死を見るって、誰かのそば近くに生きて、その人を失って、それでも自分は生きていくってことの疑似体験なんだと思った。これが物語の力。すごい。




信繁が死んで悲しくて、でも納得するしかない、最終的には納得できると思うのは、信繁が先に死んだ愛する者たちを思っていたように、私もまた、信繁に彼らの影を見たからだとも思う。信繁が死ぬことで、勝頼や室賀や秀次や三成・・・非業の死を遂げたり、無念の晩年を送った人々への信繁の思いも、この世から消える。でも、視聴者の私は、勝頼や室賀らの人生に愛おしさを感じてる。勝者とか敗者とか関係ない、彼らの一人一人の人生を感じてきた。信繁も同じ。



悪評も高い登場人物への印象を覆して、彼への熱い思いを抱かせといて、最後にこれだもん。三谷さんの物語作家としてのビターな一面が存分に発揮されてた大野治長だったと思う。今井さんも峯村さんも名演!!



信繁はほんとに、どこか抜けた奴だったね。でも、与左衛門に情けをかけたのも、千姫の女心に寄り添えなかったのも、すごく信繁らしかった。賢くて、優しくて、ひどい男。

「最後まで望みを捨てない者だけに道はひらける」 第一話での真田昌幸の名言を引いて、死の女神だった茶々にそれを力強く言わせて、そうしておいて、

「最後まで望みを捨てない者だけに道はひらける・・・とは限りません」

っていう現実を描くわけだ。なんという残酷さ! 秀頼も茶々も、大助も、あの信繁の献策がなければ違う道があったかもしれない。それが、同じく死であっても、違う死に方が。

でも、あきらめながら、恐れながら生きていたような茶々が、わずか1日にみたない時間であっても、「望みを捨てない」と心から思えたのは、救いなんだろうか。母に諭されて気を強く持った秀頼も。その一瞬のような時間の価値は余人に測れるだろうか。あるいは、彼らはやはり、最後まで人任せで、籠の鳥で、自分で決断できなかったツケを払ったのだろうか。それとも秀吉という巨大な存在が残した影であり続けたということか。

わかんない。わからないけど、大河史に名を刻む茶々と秀頼だったと思う。中川大志くんが次に大河で何を演じるのか楽しみ。これまでのどの茶々にも似ていない、美しくて貫禄があって怖くて弱い茶々を演じた竹内結子にひれ伏すような気持ち。

そう、茶々と信繁だよ・・・!











大坂へ入城したあとの信繁がいきなり色っぺえ男になったのは、間違いなく茶々のおかげだと思いますありがとうございました(何を言ってるんだろう)

前回ラスト、きりちゃんとのラストシーンがあれで納得した(いや源次郎ひどい、別れは悲しいと思うんだけどさ、この物語にふさわしいなと思った)のと同じように、今回の茶々とのラストシーンも、私には腑に落ちるものでした。




徳川方は、勝者にふさわしい、時代の創設者にふさわしいラストでございましたね。恥も外聞もなくひいひい泣きながら走って逃げて切腹とまで思いつめるのも、それを周囲に羽交い絞めにされて止められるのも、ご丁寧に枝葉で隠れながら戦況を見守りここぞというところで立て直すのも、そして自分が死んだって徳川の世は盤石とまで言い切れるほどに息子が逞しく育っていて、その息子が助けに来てくれるのも、もう完ぺきでした。内野さん、すばらしい家康でした。

2008『風林火山』の山本勘助では、川中島の戦場で苦戦し自らも負傷する中、六文銭の旗(昌幸の父、幸隆ですよ!)を救いに死んでいった内野さんが、六文銭を追いつめて見事に破ったのですねえ・・・。星野源のドヤ顔もむちゃくちゃ憎たらしく、キャスティングの意味がわかりますよまったく。

見てたときに一番泣けたのは、三十郎と信繁の戦場での邂逅。刀を合わせ、やがて信繁に去られ咆哮する三十郎。そこにやってくる作兵衛、というシーンだった。犬伏のあとといい、三十郎は何げに泣かせ場を作ったねえ。そして信繁は、ほんとに、自分を慕ってくれる人間につらい思いをさせる奴だねえ。





きりちゃん。千姫を秀忠の陣まで連れていく大役をやはり立派に果たしたきりちゃん。「その行方は杳としてしれない」というラスト。TLざっと見た感じ、あのあと死んだという意見と生きてるという意見、両方あって、統計とったら半々くらいになるんじゃないかなと、そうなるように描いたんじゃないかなと思った。まさに、高梨内記の娘として歴史の波間に消えていったきりちゃん。

「源次郎さまがいない世にいてもつまらないから」と、戦場を馬に乗って駆けまわる源次郎を見つめるきりの姿に、後を追うだろうと想像するのもわかる。でも私は、どうしても、自害するきりちゃんの図が思い浮かばないなー。たとえうっかりでも、生き残りそうな気がする。あれだけのスキルと対人術を備えたきりちゃんですから、源次郎のために死なないでほしいな。信之ばりに長生きしてほしいな。

最終回、始終、苦い顔だった信幸。「百姓は、生かさず殺さず」の有名なフレーズを口にし、体現している本多正信。徳川はそうやって、戦いのない平和な世を作り、時代を中世から近世へと進めたけど、それはものすごい管理体制だと思う。「一人一人に思いがある」からは遠い、年貢のための駒であり、大名もまた贅沢をしないできない、ご公儀のための駒。ガチガチの管理社会。

だからいつかはそれもまた時代遅れになるわけで、250年後、それを壊していくのが、信之が作る松代藩から出る佐久間象山なんだねえ・・・という歴史の妙を感じさせるラスト。とりあえず、信之は、信繁が死んでもまだまだ長い旅路をゆく。

信繁にとっての「己のための戦」「生きたいように生きる人生」は、先に逝った人たちを思って戦うことだったんだねえ、という帰結が、本当に面白いなと一晩明けて思う。

家を背負うとかいう確たる役割を持たなかった彼が、割と流れにまかせて生きていく中で見つけた「己のための生き方」は、愛する人、しかも敗れていった人たちを思うものだった、と。自分のため、と、人のため、とが渾然一体になってる感じは、「とと姉ちゃん」として家族のために生きるのが私の幸せ、という常子と似ていて、同時代性を感じる。

とはいえ、「朝は明るく優しく」な朝ドラとは違って、愛する人々を思いながらも、今ここにいる人を邪険にし続けたり、苦労させちゃったりとエゴが浮き彫りにされ、結局は大願を果たせず死んでいく信繁や、数多くの敗者たちは、歴史を描き人間を描く大河ドラマの「苦み」の部分を存分に表していた。

と同時に、そんな欠落のある、何かを成し遂げるわけでもなく終わる数々の人生は、私たちにとても近いものだった。敗者の美学ではなく、敗者の肯定とでもいうのかな。多くの死者を見送った信繁が、彼らに思いを残して戦い、ついに自分もまた死者の列に加わろうとするとき、映像が出てきたのはすえや春や梅、生きている者たちだった。彼らはきっと、信繁のこともずっと思うだろう。彼らが思い描く信繁はそれぞれに違う顔をしているけど、それでいいんだろう。人は自分なりに生きる。その姿の何かしらが、誰かの心に残る。

ものすごく残酷で苦い最終回だったけど、むごさや苦さを含めて、人生は肯定できる、するしかない、って話だと思った。あー。まだ当分は余韻に浸っているでしょう。直虎も楽しみですが!!