『真田丸』 第13話 「決戦」

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信繁青春編とやらのクライマックスとしても、もちろんこの一話だけを見ても、やっぱり完成度高いなー! 

あの直江さんが!気を回して、かき集めてくれた100名@海津城ですよ。行ってみると、明らかに戦力外で目をぱちくりする信繁。で、「ご武運をお祈りいたす」で唇片端あげて笑う直江さんですよ!! ちくしょーやられた!っていう。直江さんの精一杯の意趣返しというか・・・すごくいい。主人公に甘くない。

で、「この者たちを死なすわけにはいかぬ」と信繁は言う。そう言ったのに。武士でなく、年寄りや子供も混じる(というかそれが主力だったがw)、力弱い者たち。彼らを守るのが自分たちの仕事だと、信繁は思っている。思っているのに・・・!

という、先週からの続きが、また、ここまで10数回で積み上げてきた信繁の「仕事観」が、今回ラストに、そして青春篇のラストにつながっていくのですよ。うまいよなあ。


歴史上有名な、上田合戦(一次)。徳川軍相手に大勝するのはわかってるんですよ。ジャイアントキリング、楽しみじゃないですかー。って視聴者の気分に、ばっちり応えてくれる餅ひきちぎり作戦。餅が伸ばされて千切られて叩きつけられていくー。昌幸パパ「負ける気がしない」ええ、しませんとも! みなぎるー!! 息子5歳「たたかい、まだ?」 ふっ、待ちなさいw

「駒が足りない」と、明らかに信繁を待っていた昌幸だが、10代の若造の代わりの駒ぐらい何とかなるのでは?と思ったら、あれコミカドじゃないと無理な役割だった(違)。罠だと思わせずに程よく戦いながら敵を手の内に誘導する。あの至近距離で、敵を絶妙にイラつかせつつおびき寄せる。その道化っぷりが信繁向きなのもさることながら、危険任務に度胸よく本丸までコミットメントし続けるのは真田の次男坊という重い立場も必要だよな、と。信幸に道化を演じるのは困難なのはもちろん、敵が崩れかかるのを横から騎馬で攻める方が危険度は低く成功確率は高く、盤石が重んじられる嫡男向きの仕事。適材適所たぁ、このことで、負ける気がしません!!

川を挟み、陽気な「高砂」で相手を挑発するのは『のぼうの城』の萬斎さんを彷彿させたけど、これ実話(巷説)だとか? おめでたい歌だから戦場でも歌われてたってことかな? しかも高砂は舟で漕ぎ出す歌だから、これ「真田丸」にうってつけですごく良かった。竹柵での進行妨害、投石、百姓を動員した市街ゲリラ戦など、真田らしく、このドラマの作風らしい戦国感でした。かかれー!わー!「お味方、大勝利!(by伝令)」みたいな合戦風景がメインになる大河もある中で、ほんと有難いです…

そうか、ここで、六文銭の旗が初めて掲げられ、はためくのね。主人公によって。あんなにも大きく。あんなにも誇らしく、快活に、人を食いながら。なのに、なのに・・・!

(小さい布を接いで接いで、の一枚旗にしているのは、『八重の桜』の鶴ヶ城で照姫が作らせた「降参」の旗を思い出させた。)




梅ちゃんいくら何でも無茶すぎるでしょ、梅を死なせるための展開でしかない、梅の行動原理が不可解、って声がTLで結構見られたんだけど、私はなぜかすんなり見たんだよね。





梅には、「真田丸」世界の多数派である武士階級とは別の行動原理があったんじゃないかと思うんだよね。その「武士階級=多数派」は、戦に際しては、現代の私たち視聴者と同じ論理で動いてる。現代人的価値観で動いてるきりちゃんが、「戦いは男の人にまかせておけばいいのに」「お母さんなんだから赤ちゃんのそばにいたら」と言ったのがその証拠。

でも、梅ちゃんは違った。武士の娘じゃない。かつて高梨内記は娘のきりに「あの子とは身分が違うんだから同じレベルで付き合うな」と言った。武士の娘じゃないから。梅ちゃんは普段は百姓仕事をしてる地侍の娘。そんな自分の強みも弱みも、自分でわかってる賢い子だった。入会地争いになったら自分も出て行って戦ってた。しかも実際に力持ちで強いし、武士の娘であるきりなんかよりずっと働き者で賢くて、大好きな信繁を惹きつける魅力も持っている。「私は身分が低い、でも武家の娘よりずっと良くできた娘よ。だから源次郎さまの心を射止めた」ってきっと思ってた。






そう、久しぶりに大河らしい大河ドラマが見られるとか、三谷流のエンタメ作品を見たいとかいう視聴者が集まっている本作なのだから、上田合戦(一次)は、大河ファンやエンタメ好きが望むような血沸き肉躍る合戦絵巻を徹底して、スカッとして終わることもできた。あるいは、スカッに、ホロリとくる人情劇を混ぜてもいい。梅(のモデル)の生涯は、史料にハッキリ残ってない。黒木華ちゃんが次のお仕事の都合上ここで退場しなければならないにしても、やりようはいくらでもある。同じく戦で死ぬにしても、自分の子を庇うなり他所の子を庇うなり。でも、しなかった。



前提条件では不利なはずの戦いを大勝した戦をカタルシスで終わらずに、5歳児にもわかる痛くて悲しい描写。敵のたくさんの死骸をむごく描き、“たった50人”で済んだ味方の死者の中に梅がいる。どの死もひとつひとつ等価な悲劇なんだという感覚が私たちを貫く。

武田の滅亡に始まる真田家の航海で、信繁は成長してきた。春日信達の謀殺にかかわったとき、梅の助言で信繁は「少ない犠牲で勝つこと、真田家や領民を守ること」の意義に活路を見出す。室賀が謀殺のときは策略の蚊帳の外だった自分を悔いるまでになる。直江から借りた100名の戦力外戦闘員を殺したくないと思ったのは武士のプロ意識だっただろう(そのプロ意識を育てたのは地侍の娘である梅への恋もあっただろう)。

彼は上田合戦で見事に働いた。昌幸の作戦は、自賛したとおり「水も漏らさぬ」にほとんど近いものだった、50人しか死なせなかったのだから。ただ、その50人には地侍が指揮する百姓らと、梅が含まれていた。

どんなに大勝しても取り返せないものがある、と信繁が痛感して、この青春篇は終わる。

TLで「梅が何であんな突撃死したのかわからない」という感想をたくさん見るにつけ、「どうしてわざわざわかりにくい書き方をしたのか?」と考えてた。脚本段階では存在したシーンを編集の都合等で削った(どんな大河や朝ドラにも往々にしてあることらしい)からわかりにくくなっている、という説も大いにありうると思うんだけど、私は前述のように、梅の行動に関する違和感はあまりなかったので、自分の解釈から考える。

といっても、彼女の行動に共感はできない。私なら絶対我が子のそばを離れないしそもそも戦いたくない。私がすんなりのみこめたのは、「梅は、私たちとは違う考え方で生きてる子だったのだ」ってこと。私たち、というのは視聴者であり、梅を止めたきりを代表する、武家の人々でもある。

この回は「信繁青春編のクライマックス」だと公式が宣伝していたから、今回の戦は、ドラマ冒頭と対応した構図で考えてもいいのでは? ドラマの冒頭は名門・武田の滅亡であり、武田勝頼の死だった。あまりに尊い平岳大の勝頼は、TLで正ヒロインと称えられていたものだった(既に懐かしい泣)。彼は真田昌幸の申し出を断り、岩櫃ではなく岩殿城に向かう。そこで小山田信茂の裏切りに合い、道を失う。

私たちは武田の滅亡を史実として知っているので、悲しみつつもそれをすんなり受け容れるのだけど、真田を選んでいれば勝頼はあそこで死ななくて済んだのかもしれないのだ。…と少なくとも源次郎少年は思っただろう。あの夜、わざわざ忍んできたうえで真田と袂を分かったお屋形様を、信繁は理解できなかっただろう。でも「偉大な信玄から武田の当主を引き継いだ」勝頼には、彼にしかわからない行動原理があった。

梅も同じだったのではないだろうか? 真田のボンに見初められた自負のある地侍の娘にしかわからない行動原理があった。2人は同じく『真田丸』信繁青春編におけるヒロインで(違うか)、身分は両極端ながらも、信繁ら「国衆レベルの武士」にとっては理解しがたい、物語世界の中のマイノリティだった。2人とも、信繁(それと、ある意味かれの半身であるところの、きり。そして視聴者)には理解できない行動で死んだ。

梅の死については興味深いツイートがあって、



確かに、あの少年のシーンは不思議なのだった。てっきり親とはぐれたとか親を失ったとかかと思えば、お守りだし。しかも自分の家なのに入らずに泣いてるし。何で六文銭をお守りにしていたのか、劇中で何の説明もないし、「この世の者ならぬ童」感はあった。

梅は黄泉の神に魅入られたからあんな謎の行動をとったのか、それともあんな無茶な行動ゆえに三途の川の渡し賃が出てきちゃったのか。どちらにしても、“ほとんど正室に近い”梅を、信繁に(視聴者にも)飲みこみがたい行動で死なせたのは、「愛し合っていてもわからないことはいっぱいある」というある意味残酷な真理を強調させたように思う。


そしてそれは、この物語のクライマックスにある信繁の最期に繋がっていくような気もする。今、梅ちゃんが真田丸青春篇ワールドのマイノリティだったけど、信繁は1615年の大阪城内で多分マイノリティになってる。私たちはそのとき、ほとんど無謀とわかっていただろう戦いに信繁が向かう行動原理を、理解できるだろうか? 信繁の生涯のパートナーであり、現代人目線のきりちゃんは、どういう反応を示すんだろうか?






◆ここから内容からちょっと逸れてるかも・・・な殴り書き

 

私が、今「三谷脚本いいな、真田丸いいな」ってあらためて思うのは、今回、TLやなんかで梅ちゃんの行動が謎と言われようと、これまできりちゃんがさんざん嫌がられようと、私は、梅ちゃんもきりちゃんもとても好きなのだ。自分を生きてる感じがする。きりちゃんが戦国乱世で浮いてても、梅ちゃんが武家で浮いてても、つまり2人がはみ出しっ子だったりマイノリティだったりしても私は魅力を感じてる。他の登場人物たちに対しても、みんなみんなに。出番の多寡はあっても、作者の愛は等しいように感じるのだ、そしてそれを徹底して描ける覚悟と確かな力量を感じてる。

私は、昔から無意識にマイノリティの問題に興味があって、ここのところ、ドラマや小説などもその視点で見ているんだなあと気づいた。

信繁にとって、梅ちゃんは「守るべき存在」だったんだよね。きりだって(視聴者の私たちだって)そう思ってた。女は弱いんだから、守られるがわにいるべき。戦いの場に出て行っても邪魔になるだけだと思ってた。でも、梅ちゃんは守るために戦いたかったのだ。女で、乳飲み子がいて、身分が低く(=社会的立場が弱く)、庇護されるべき存在の彼女だけど、「主体」があったんだ。

前述ツイートにも書いたけど、壁と卵だったら卵の側に立つのを「良き物語」だと認識してる。村上春樹が言う「壁」は社会システムなんだろうけど、社会システムってつまり多数派を優先したものだ。あるいは社会システムに適合できる者たちが多数派になるか。どっちにしても卵は弱い。数が少ない。

その「卵」の尊厳を書いて人の心に訴えることができるのが、物語。そしてマイノリティを尊重し、生きやすくするには、結局は、個の尊重なんだと思う。私たちの誰もがひとりひとり違って、且つ等価だってことをみんなが認識すること。どんな人にも主体がある、その人なりの論理で生きてる、それがあたりまえだという意識が共有されていること。

そのために、逆説的なんだけど「人は簡単に他者を理解なんてできない」という断絶が描かれたり(理解なんてできないけど、それでも、という姿勢)、それから、多数派から少数派に、あるいはその逆への反転やクラスチェンジとか、運命の残酷さとかも描かれたりすることになると思う。そういうのを物語上で体験するのはきついんだけど、でも吟遊詩人の時代から、いやもっと昔、たき火を囲んでた時代から、人はそうやって物語を通じていろんなものを受け取ってきたんじゃないかな。物語ってそのためにあるんじゃないのかなと思う。

主人公が若い時代の3か月、主人公まわりは楽しく勢いよくを重視して描いてもいいのに、しかも大勝した戦で締めるんだからスカッ&ホロリで終わってもいいのに、主人公にシビアな体験をさせて終わった「真田丸」は、そういう意味で作り手の強い意思を感じる。梅が主体的に動くことで(その”主体的さ”を主人公や視聴者にわかりにくく描いたことで)死んでいったのは、とても示唆的なんじゃないかと。

それは道徳的なメッセージというより、いやもちろん作り手に「今の世の中に届ける物語は、勝利のスカッと感だけじゃだめだ」って思いがあるにしても、「ここまで深く、それでいて面白く作れるか?」みたいな、出し惜しみしないオラオラ感みたいなものも感じて、頼もしいなと思ってる。『ちかえもん』ばりの、「なーんて陳腐な言い回しは、ワシのプライドが許さんのである」っていう、戯作者の業を見てる感じがするし、これからも見たい。

 

 

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