『蒼路の旅人』 上橋菜穂子
- 作者: 上橋菜穂子
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2010/07/28
- メディア: 文庫
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女用心棒バルサではなく、皇太子チャグムを主人公に戴く『旅人』シリーズの本作。物語はうねりまくる。
新ヨゴ皇国の上つ方の勢力図。帝と皇太子、父子の確執から破局。父に訣別されての祖父との海旅、その悲劇的結末。サンガルの虜囚となり、そこから脱走し、失敗し、南の超大国の密偵が乗った海賊船に一人つかまって、長い海路を経てタルシュ帝国に至り、今まさに新ヨゴを攻めようとする王子と対峙して、そして・・・・
1冊とは思えないほどの質量感。一冊読み終えると、自分も長い長い旅をしたような気分になる。皇国海軍の旗艦が失われていく描写はまるで映像が瞼の裏に浮かんでくるよう・・・。
きつい煙の匂いが漂ってくる。トーサが立っている甲板の後ろから、黒煙があがりはじめていた。
「帝からおあずかりしたこの旗艦を、敵にさしあげるわけにはいかないのです。オルラン殿、急いで、この船から離れてくだされ。船倉に積んできた油樽のすべてに、そろそろ火がまわるころです」
炎が船全体をなめ、甲板が弾ける音がした。帆が燃え、帆柱が折れて傾いてゆく。白く泡だちながら、海の中へ沈んでいく船を、チャグムはもはや、見ていることができず、船端に額をこすりつけて、崩れおちた。
虜囚の夜、帝の密命を受けた<狩人>に暗殺されかけるチャグム。もう一人の狩人ジンがその危機を救ったのは、「次の帝の命をお守りするように」というチャグムの教育係の言葉に心打たれたからだと告白する場面も、ズドンとくる。そうだ帝さえいなくなれば次の帝はチャグムなんだー!って自明の理が、ここで初めて読者の胸にリアルに迫ってくるのだ。そう、今は帝の命とてどうなるかわからぬ動乱期に差し掛かっている。
脱走のゴタゴタに乗じて、やすやすとチャグムの身を確保する有能な密偵。彼が使う船ではチャグムと同年代の少女セナが船頭をつとめる。
シリーズの序盤から野心あふれる大国家として時折顔をのぞかせていたタルシュ帝国がついにその姿を現した。港の町割りや都の排水設備、城壁や床の材、大浴場の装飾に至るまで、執念深いほどの筆致でその豪奢さ煌びやかさが描写される。素っ裸になって大浴槽に浸かりながら、
驚くがいい、この富に! 屈せよ、このすばらしい大国に!
という、帝国のほうぼうから轟いてくる圧倒的な声なき声に包まれるチャグムに、読者はシンクロする。
最初に登場する場面から苛烈さと優秀さを見せつけるラウル王子。章タイトルの「タルシュの悍馬」とはそのまま、彼のことでもある。
ラウル王子がそばを通ったとき、むっとする熱気のようなものをチャグムは感じた。稲妻を孕む雷雲のように、凝縮した力を感じさせる男だった。
たった二文での見事な表現。相変わらず、小学生でもすんなりと読める簡明さの中に、ハッとするような名文が続々と出て来る。
すべての登場人物を魅力的に描くのも作者の腕だが、初登場組ではラウル王子に飼われている密偵ヒュウゴの印象が強い。「底が読めないけれど歪んだ感じがない。策略を巡らしてはいても何かまっとうな考えがあってのことだろう」と説明されるとおりの言動の数々。彼とチャグムとの場面は、腐女子成分少なめ(のはずだ!たぶん・・・(笑))の私のセンサーにも何か引っかかるものがある・・・
特に、嵐の船室で叩きつけられないよう、柱ごとチャグムを抱いて、震えるチャグムの気を紛らわすために、嵐の間じゅう陽気な鼻歌を歌っていた・・・っていうエピソード!! 何この萌え場面!! 寒い夜には何も言われずとも綿布団持ってきてかけてやるし・・・何この萌え場面!!(二度目) こーゆーのって、自らも「萌え」センサーを搭載してないとかけなくないっすか、上橋センセー?!
ゼェハァ。
もとい、今作で正しく(?)ときめくべきは、チャグムと船頭の少女セナとの交歓であって、2人が束の間、海の中で遊ぶ場面はあまりに眩しく、切ない。
セナの髪が水草のようにひろがり、口もとから吐息の粒が光りながら海面へのぼってゆく。揺らめく金色の光の中を、のびやかなセナの手足が、なめらかに水を掻いていく。
(いまだけだ・・・)
そんな思いが、不意にチャグムの胸を刺した。もう二度と訪れないだろう、一瞬の光の中に、いま自分はいるのだと思った。
セナはセナで、海賊の水夫たちに混じって甲板を拭き掃除し、汗をかいて半裸になったチャグムの「なめらかな少年の背が眩しい日差しのもとで光る」のを「不思議な気持ちで見ていた」りするのだよね。恋という言葉もまだ知らない2人の淡い思いの重なり。もちろん、予想より早く訪れる不意の別れにも胸をしめつけられる。
てか、バルサともシュガともラウル王子とすらも、誰と絡もうと全部萌えられるチャグムの総受け能力主人公力ハンパない・・・!! うー、チャグムがこんなにも成長するとは、『精霊の守り人』のときには予想だにしなかったぜ(ジタバタ)。
そして、タイトルの『蒼路の旅人』とは、物語の中核を占める、海賊船でのヤルターシ海の旅路を指すかと思いきや、最終章でまさかの・・・!という展開。ここまで緊迫する国際情勢を描いておきながら、このラストが禁じ手と感じられないのはすごいことだと思った。
奇跡というものがこの世にあるのなら、それを起こせるのは、ただ神にすがり、祈る者ではなく、こういう決断ができる者ではなかろうか。
チャグムの決断に対して、<狩人>=手練れの暗殺者ジンが漏らす述懐。世界の、時代の大きなうねりの中で、あくまで「格闘する人間」が中心にある物語だ。