『花燃ゆ』 10話「躍動、松下村塾!」

おもしろかった(ひらがな)。おかしい、あいつらw

松陰先生の「来る板前」・・・もとい「狂いたまえ」がこーゆーシチュエーション(お文ちゃんとのイチャイチャを見とがめられて因縁つけられた吉田稔麿に加勢してケンカだワッショイ → 玉木おじさんに怒り散らされて師弟ともにショボーン → 「それでもぼくはお江戸に行きたい!ぼくには志がある!!」「そうだ、吉田、君ならできる!」)で発せられるだなんて、え予想できた人いましたぁ? 斜め上すぎるww

これが躍動www

私塾の門人が選ばれないのはおかしいの、どーのと言ってるけども、そもそもおまいら全然優秀に見えないからしょーがなかろーもんw やってること、大学のサークルどころか、小学校の学級会みたいなんだもんw それを言うなら、明倫館の面々のどこが「近頃のおまいらはたるんどる(`Д´)/」なのかも、まったくわからんのだけど。

ドラマの中でドンパチやってる前提条件がまったく描かれてないので、どちらの心情にも立てないのであるよw 

そして何かと遊郭に行きたがる大河ドラマw 民放の時代劇かw 久坂は扇で顔を撫でられただけで昇天したのか??www

先週の感想で「志、ココロザシってうるさいけど、志の中身っていったい何なんだね?」と書いたら、今週、吉田くんに対して先生がそれを突っ込んでくれたんですけど、結局、江戸の火事の話をしたら文ちゃんが「そんな面白い話初めて〜☆」と女子力発揮した相槌打ってくれたんで「志は江戸の風俗を学んで伝えて良い世の中を作ることです!」って話になった。えーそれが塾生の志w この世界ではあと200年くらい太平の世が続きそうだww

そして、北大路欣也が「そーせい」を発したときが最高潮の、私の「花燃ゆ」TLwww 「そーせい」カウンターが最大の関心事ww

なんかいろいろおもしろいですw

劇団ひとりが出てきたので、やれることがだいぶ増えたし(彼の肩にかかるものは大きいw)、久坂と高杉のキャラ割もちゃんとできてて関係性も良いし(高杉の、憂さ晴らしだ、飲むか?に、おまえとは行かん!の久坂。基本ですねw)、伊勢谷は「なんか脚本はアレだけどこれはぜったい松陰先生」感ばっちりなので、うまく回ってきたなーという感じはしてる。学園ドラマとしてw や、それを目指してるんだから、それでいいわけよね、作り手がわはw

「お文さんを好いとったみたいですね」って、いかにも時代劇っぽい、うまいオチつけた。てか、文ちゃん、塾の主要メンバーを全員ホの字にさせるのかぃ。

今回、椋梨の手下として動くと見せかけて、しれーっと塾生たちのサポートをした大人な伊之助は、ドラマの中できちんと機能したといえばそうなんだけど、「ドラマの中で存在価値を持つために、動きを与えました」にしか見えなくてつらい。必然性を感じないんだよなー。

しかし椋梨を演じる内藤剛志はいい味出してる。稔麿に「そーせい」が発動したとき、「なにぃ!?」みたいな顔芸をしなかったのは良かった(演出か?)。逆に、そういう顔をさせられがちな石丸幹二周布は割を食ってる。長井雅楽が出てきた。羽場裕一。かつらと紛争がすごく似合ってたんだけど、どーなりますか。

今はまだのどかだが、幕末ドラマであるからして、今後、多くの人物が非業の死を遂げるわけだよね。これは個人的な感覚なのだろうけど、その死に「重み」が与えられなければ、大河ドラマとして意味ないよなーと思っちゃうのです。主人公サイドの登場人物でなく、敵サイド・・・今でいうなら藩政府サイドの人物や、脇役ポジションの人物が斃れるときも、痛ましい思いで見られなければ、そんな軽いものを伝統枠として莫大な予算と労力懸けて維持するのって不毛だな、と思っちゃいます。

で、ドラマの中の人物の死に「重み」「痛み」を与えるのは、それまでの生き様ですよね。だから今の、椋梨はともかく周布さんあたりの描き方見てると暗然とします。

そこで思い出すのはやっぱり近いところの幕末大河「八重の桜」で、これも史実からして、主人公の父や弟、神保修理やら妻・雪やら、林権助やら田中土佐やら、ワラワラ死ぬのわかってたわけじゃないですか。まだ戦争は遠い時期だったころから、それがすごく悲しくて、怖くて、実際にその死にも重みがあって・・・。別にシリアスだから重いってわけじゃないんですよね。生き様にリアルさが感じられるかどうかなんだよな。花燃ゆも、学園大河でもホームドラマ大河でもいいですが(いやだけど)、そこだけは大河の良心としてがんばってほしいなと思ってます。