『ど根性ガエル』  第4話、5話

誰もが喪失の悲しみを抱きながら生きていることを描いた4話。誰もが手に入らないものを欲しながら生きていることを描いた5話。日テレ土曜9時“切ない”枠の面目躍如のような、秀逸な連続回だったと思う。

ヒロシのサングラスのいわくが明らかになったとき、同時に、その場にいた五郎も、京子ちゃんも、ゴリライモも親を亡くしていることを視聴者に再確認させ、彼らがそれを「先輩後輩関係」だと言い合って笑うのがこのドラマだよなー、と。ひとつひとつ、個別の喪失だけども(きっと彼らそれぞれに故人との“サングラス”みたいなエピソードがあるんだろう)、喪失の普遍性というか。

地中のモグラが、ゴリライモという後ろ盾を失い一人になってから「トンビ」と名を変えて、花火職人になっている。ちゃんとプロポーズして(笑)結婚し、親にもなっているトンビが、かつての仲間たちが地面から見上げる雨上がりの夜空に、花火を上げてくれる。スカイツリーよりもはるか上空から花火を見下ろす空撮の画が一瞬映ったのが印象的で、生者たちは地面から、星になったものたちは空から、同じ花火を見ているのだと。その視線が交差するのが花火大会の火なのだ、というようだ。

ゴリライモの力を借りて花火のように打ち上がる(?)ピョン吉。なんという楽しさ、そして切なさ! けれど重力にしたがって、すぐに落ちて来る。遠からず空から見上げるがわになることを予感しながら、今はヒロシと共に花火を見上げる。サングラスをかけたヒロシのつぶやきを、目の奥の涙を、ヒロシに着られたピョン吉だけが察しただろう。

ピョン吉がヒロシに着られていない=ヒロシと離れているシーンと、ヒロシに着られているシーンとが当然ながら意図的に作ってあって、まあだいたい、すったもんだの末の各回のラストには着用シーンがあるんだけど、それはいつも遠くない別れを内包していて、共にいる今の幸せと、別れの切なさを思わせる。

お給料をもらって一緒に焼肉を食べる幸せ。花火を一緒に見あげる幸せ。一緒にクワガタを追う幸せ。「おいら、人間になってヒロシとずっと一緒にいたい。」それが、かないっこない「ないものねだり」だとわかっているから、ピョン吉はクワガタ捕りをせがんだのだと思う。ピョン吉と出会うよりもっと前の、1日中クワガタを追って楽しめていたヒロシの無邪気な子ども時代を、せめて共有してみたかったんだと思う。

そのささやかな夢が叶えられている木の下で、五郎が(“先輩の母ちゃん”でなく)「母ちゃん」と呼びかけてドキッとさせる。「ひょっとして、ピョン吉は死んでしまうんでやんすか」。五郎、京子ちゃん、母ちゃん。前回同様、「地上から見上げる」という行為に、喪失の意味が付与される。

「何言ってんだ、おまえ」とピョン吉の切なる願いを一蹴するヒロシ。ほんとは別れが近いことに気づいてるんじゃないかと思えてきたよね。ピョン吉と寝室(?)を別にして、背を向けてる。うすうす予感しながらも、気づかないふりをしてる? 気づきたくないから、無意識のうちに。いい話も、おセンチな話も大っ嫌いなヒロシ。ガキっぽい、好き勝手な振舞いの奥の繊細。

1日社長で自分の未熟さを痛感したヒロシが自嘲するのを母ちゃんがあたたかい眼差しで、よしこ先生は胸を痛めながらそれぞれ見守り、京子ちゃんは、がんばった末に己の未熟を正直に受け止めたヒロシをうらやましく思って触発され、そう言った京子ちゃんをゴリライモが複雑な表情で見つめる(そして“あらま☆”とそれを見てとる白石加代子w)、というシークエンスがよかった。成熟した者、すばらしい者ではなく、未熟な者もまた、他者に与えることができるという世界。未熟さもまた魅力なのだという真理を、ゴリライモだけが知っている。・・・という切なさを、あたしはわかってるからね、ゴリライモ!!