『天と地の守り人 第3部 新ヨゴ皇国編』 上橋菜穂子

 

天と地の守り人〈第3部〉新ヨゴ皇国編 (新潮文庫)

天と地の守り人〈第3部〉新ヨゴ皇国編 (新潮文庫)

 

 終わった・・・終わってしまった・・・! 

家族が寝静まった夜中に一気読み。しばし放心したのち、ぐわわわわっと熱い気持ちが再燃してきて、いろんなシーンを何度も読み返す。・・・というのを何日も何日も繰り返してたよー!30半ばになって、こういう読み方をするとは思わなかった。私、30前くらいから、あまり小説を読まなくなってたんよね。若いころのように感情を揺さぶられる小説に出会えることが少なくなっていた。それが、まさか、児童文学(としてもともとは出版された小説)で、しかも、ファンタジー小説(と一般的には分類されるはず)でこんななっちゃうとは・・・!

やや駆け足の感はあるけれど、おおむね、「これしかない!」と思える最終巻だった。

最終巻でとにかく印象的だったのは、戦争の描写。『精霊の守り人』に始まるこのシリーズは、人間(や普通の動植物)が暮らす世界と並行して同時に存在している、普通は見えない異世界<ナユグ><ノユーク>を一貫して描いてきた。不思議な生き物が暮らし不思議な秩序をもった世界を、私のようにファンタジーから遠ざかっている読者までが「確かにあるもの」として感じられるほどに、見事に描いてきた。

けれどここへきての最終三部作で力を入れて描かれたのは、人間の世界、しかも戦争だった。草兵・・・農村から駆り出された一人の名もなき兵士として、タンダが経験させられる戦争の現場。町を焼きだされ、避難民として国外へ逃れる旅をする市民。そして、戦場に累々と散らばる兵士の無残な屍を踏みしめ、やがて自らの剣で敵国の兵士を貫くことになる皇子チャグム・・・。

その戦争の描写は、血沸き肉躍るアクション・アドベンチャーというよりは、かなりリアルな、つまり凄惨なものなのだった。巨石に押しつぶされ、その断片に弾き飛ばされ、自分の槍ごと、長大な盾の下敷きになって死んでいく兵士たち。戦場のあとには胸が悪くような腐臭がたちこめて吐き気を誘い、切り裂かれ、焼けただれ、潰された屍を鳥たちがついばむ。もちろん「子どもも読むもの」としての抑制はされているにせよ、ギリギリのラインまで踏み込んだ描写になっている。これを読んだローティーンやミドルティーンの子はどう感じるのだろう?

それにしても、第一作の冒頭、夜中、母である王妃に起こされて寝ぼけて登場した11歳の少年が、長いシリーズの中で、事実上父帝に廃されさまざまなものと戦いながら長旅をして、18歳になったわけだ。存亡の危機にある祖国に戻ってきた彼は、目の脇に刀傷を負い、血まみれの武装で、暗いまなざし、殺伐とした気配をまとっていた・・・って、やはり、とてつもなくヒロイックである! 『虚空の旅人』を読んだとき(私が最初に読んだのは「虚空」だったのです)

http://emitemit.hatenablog.com/entries/2014/05/01#1398945484

からすでに、「このシリーズは少年少女の冒険の物語であり、成長の物語です」と感想を書いたけど、こんなところにまで到達するとはさすがに想像できなかった。章タイトルの「死を越えて」はダテじゃない。

そのあとに続く章「天を行く者、地を行く者」でのチャグムと父帝との対峙、これがもう、本当にすばらしくて、「ここまで読んできてよかった!!」と心から思ったものだった。その深い断絶と、そこから続く道・・・! これしかない。章タイトルまで含めて、これしかない。そのまた次章「奔流来たる」は、東日本大震災を経た今読むと、直接に被害にあっていない私でも胸が苦しくなるような描写で、どうしてもあの震災に思いを致さずにいられない(註:この本は当初平成19年に出版されたもの)。

この小説世界での自然界<ナユグ>の変化は、人間の世界にも常に影響を及ぼし、戦争の一因にもなって(もちろんそれだけが原因ではない)、そしてあるとき、自然界の奔流が、多くを・・・「すべてを」といってもいいほどの多くを押し流していく。そこに神の意志はない。世界は「ただ、在る」だけ。多くが失われてゆく。そしてそのあとにまた、若葉が萌ゆる。

チャグムの物語の最後の小見出し「野の帝」に深い深い感慨を覚えた。第2皇子の時代から何度も殺されかけ、立太子するも廃され死んだことになって葬儀まで挙げられた彼が、ついに帝位につく。<天ノ神>を信仰する国、新ヨゴ皇国の帝とは、天に加護された神聖なる地位。けれど彼は己を「地を行く者」とするのだ。

そしてバルサ。「つれあい」の一言に、鈍器でゴーンと頭を殴られたような衝撃を受けたが、そのあとの「あんたの腕を切り落とす」で思わず落涙・・・。けれど、「顔色一つ変えず」最後までそれをやってのけたときが、バルサの人生が報われた瞬間なのだと思った。これも、「ここまで読んできてよかった」「これしかない!」の着地。幼いころから闘いの中に身を置き、命のやりとりを繰り返して、さまざまなものを失い諦めてきた彼女が、最後に愛しい人の身体の一部を自らの刃で切断することによって、その愛しい命を救った。もっとも大切なものを、この世に繋ぎとめることができたのだ。

やや駆け足に残念に思えたのはふたつ。まずは、<ナナイ大聖導師>に向かって、「あの世から見ているがいい、この星読みが何を為すかを・・・」と啖呵を切ったシュガが、チャグムの帰還によって言葉ほどの活躍をする場を失ってしまったこと。それと、タルシュ帝国まわり。王子兄弟の確執、皇帝オーラハンと太陽宰相アイオルの青春の日々、枝国の統治など、さまざまな種を蒔きながら回収があっという間だったのは、これがバルサとチャグムの物語だから仕方ないのだが・・・。

オーラハン時代から始めれば、ゆうに10巻くらいは「タルシュ帝国編」が書けるはず! しかも、この作者ならば、見事に書けるにきまってる!! でも、あとがきなど読んだところでは、これ以上、この世界を書くつもりはないみたいだもんねぇ・・・。ヒュウゴについては「炎路をゆく者」という外伝があるらしいが。それだけじゃ足りない、とうてい足りないよおー!

・・・・・もとい、ここまで常に闘いの中にあり、誰かを守る立場であったバルサは、物語の最後に「タンダとの愛の巣」に帰り、平穏を得ることが示唆される。対照的に、バルサに庇護される者として登場したチャグムは、国を総べ、多くの民を守り戦う者として歩み始める。その「役割の交代」はチャグムが子どもから大人へと成長した証であり、同時にバルサの衰えを示すものでもあるように思えて、少し寂しい。

もちろんシリーズ終幕で30代後半にさしかかったバルサに「老い」という言葉はまだ早すぎるけれど、命のやりとりを日常にする「守り人」としてのピークが過ぎようとしているのは本文にも明らかだ。けれどそれはバルサにとって次のステージに上がることを意味し・・・たとえばタンダの「つれあい」として暮らす中でもしかしたら新たな命を授かり、守り育んでゆくのかもしれない。そして、そうだとしてもそうでなかったとしても、命に永遠はなくいつか失われていくものであり、それは必ずしも悲しむべきだけのことではない・・・。最後にはそんなふうに思える壮大な物語だった。

私たちは等しく、「ただ、在る」世界の一部。誰かが成長すれば誰かが老いる。成長した誰かもまた、いずれは他の誰かに道を譲ってゆく。だからシリーズの最後に、それまでばばーんとメインで主人公をはってきたバルサとチャグムとの比重が入れ替わったような気がするのも必然なのだと思う。異界<ナユグ>を見て感じることのできる稀有な能力をもって生まれたチャグムは、国の帝となってもなお、自分の在る世界で、しかも、地を行く者として歩んでゆく。それはあくまで地に足をつけて戦ってきたバルサ系譜に連なる者としての姿だ。そこには幾多の困難があることも予想できるからこそ、希望が輝く完ぺきなラストだと思った。