『武士とはなにか〜中世の王権を読み解く』 本郷和人

2012年大河『平清盛』の時代考証を担当した研究者による、一般向けの書。なんせあのドラマは「汚い」「暗い」「難解」など、大して見てもいない層からの「バッシングのためのバッシング」がひどく、そのうち矛先が考証に向けられたものも少なくなかった。特に序盤、天皇家を「王家」と称したことで批判にさらされ、著者自身が相当参っているという噂を大河界隈(どこだよ笑)で聞いていたので、その後、同じくNHKの「知恵泉」などに元気に出演している姿を見るとホッとしたものだ。

当時は落ち込んでいたものの、やがて「史料をひもとき、歴史へのアプローチを伝えて意見をやりとりしながら、歴史認識を構築していく。そんな、研究者と一般人との橋渡し、いわゆる“ヒストリカル・コミュニケーター”のような存在になりたい」という意志を持って本書を著すに至る過程が、あとがきに詳しくある。

そのとおり、歴史を専門的に学んだことはなく、けれど興味だけは人一倍(笑)ある私のようなシロート歴史ヲタにとっては、とても面白い本だった。

まず冒頭で、戦後、皇国史観が否定された後での中世史の研究史(笑)についてダイジェストで紹介されているのが面白い。権門体制論から東国国家論ときて、「二つの王権論」として、私にも馴染み深い網野善彦五味文彦の名が出てきた時は軽く興奮した(笑)。著者はこの「二つの王権論」に与して本論を展開していくのだが、これが非常にアグレッシブで、学界の評価はわからんが、読む分にはすごく面白いんである。

王権とは「自立」であり「自律」であるというのが筆者の主張で、自立(周囲に従属を要求し、かつ他者の助力を必要としない)のためには、たとえば官僚組織や軍隊が必要であり、自律(自らが能動的に領国・領民と向き合い、効率的な統治を実現する)のためには、統治者として自らに与する側をも罰する覚悟が必要である、と説く。

その前提のもとに、中世を通じて為政者の「統治」力が高まっていく様子を解説し、北条時宗の死後に安達泰盛平頼綱の間で起こった「霜月騒動」を「統治派」と「反統治派=御家人の利益優先派」で起こった争いと位置づけ、そこで統治派である安達泰盛が敗れたことで、鎌倉幕府が統治者として停滞し、それがひとつのきっかけとなって、やがて衰退の途を辿ったという説など、なるほどと思わされる。霜月騒動以来、衰えた「統治力」を復権させたのが、尊氏・直義の二大巨頭政権である足利政権で、特に直義の行政能力、統治力を著者は高く買っている。

そして著者は、応仁の乱等、荒れる中世の中で、「タテ」の統治=戦国大名のほかに「ヨコ」の統治=惣村の発達を挙げる。大名と一向宗門徒)との激しい争いを「タテとヨコとの戦争=真逆の統治の仕方が招いた必然的争い」と位置づけ、一般には「抑圧されたキリシタンの蜂起」「有馬・小西など取り潰された大名の遺臣の反乱」「領主・松倉氏の苛政に対する一揆」などと解釈される「島原の乱」を、タテとヨコとの争い、その最終章とみなす。この乱の終結をもって、日本は真の意味で近世へ入るというのである。

というわけで大変楽しんだ読書であったが、本書、文章がやたら、大上段なんである。「史料を博捜し」「王家の先蹤は平将門」などなど、一般人には耳慣れない熟語や、大げさに聞こえる言い回しがあちこちに見られる。この大仰さが、日本史学界の常識なのかというと、シロートながらあまりそうは思えないのだが、まあ、この意欲的な書には、この文章が適しているのかもしれない。