『軍師官兵衛』 第7話「決断のとき」

いきなり安国寺恵瓊登場。派手な紫衣が何だかとても大げさに見えたんですが、考証的にOKなのか、ビジュアルのわかりやすさ重視でのチョイスなのか、ちょいと気になります。官兵衛との対談は意外にまともに感じられました。情報収集力(信玄の死)や分析力(織田家の台頭による情勢変化)など、にこやかな中に鋭気を秘めて披歴し合うといった具合。ただ、恵瓊にせよ、毛利3巨頭にせよ、どうしても『風林火山』の今川家ほどの迫力はなく、むしろその劣化版に見えがちなのが残念です。鶴見辰吾の活躍を祈る。

そーいや、いきなり登場といえば、官兵衛の弟・兵庫助とやらがお目見えしましたね。いかに歴史的に無名とはいえ、主人公の弟が小一郎秀長よりもあとに登場たぁ可愛そうな気がします。てかこれまで彼を黙殺してきた脚本のご都合主義を感じます。最近発見された隠し子かなんかなのか?

さておき、織田につくか毛利につくか。ものごっつ大きな決断のはずなのに、さすがこのドラマらしくあっさりした話でした。主人公の葛藤も、周囲の迷いにも、切迫感、悲愴感がほとんどないんですね。「革新の織田、守旧の毛利」とでもいうべき政治的/安全保障的争点に、「兄弟姉妹が敵味方になってもいいのか」という葛藤を前面に押し出してきてましたが、すげー弱い。

実家を同じくする女性が、姉妹を通じて他家に交渉に来る外交官のような役割を果たすこと、それ自体は面白いんですが、言ってる内容に知性や時代性が薄すぎる。地理的にも政治的にも姉の嫁ぎ先と姫路(御着)では前提条件がまったく違うというのに、闇雲に「一緒に毛利につきましょう」って。姉妹で敵が一致しようが、敵にもろともに撃破されたら元も子もない話だし、どう考えても自分ちや主君の家の安全が第一でしょう。そーいや、赤松の脅威はいつのまにか無効化したのか? 播磨に全然、乱世感がないんだが。

ついでにふたり目の話をまだ引っ張ってた。子宝祈願の御札とか戦国版バイアグラとかを調達してきてくれるのを、「ったく、いるのよねー親切のつもりでこういうことやるKYな人って!!」と視聴者がプンスカして盛り上がるとでも思ってるんでしょうか? 見てて不快なだけなんですが。

あと、又兵衛エピソードのテンプレ感も異常w 「親戚をたらい回し」って現象は戦国にもあるんですかね。てか、このドラマ世界はよほどの乱世らしいから、戦で両親をなくして親戚をたらいまわし(笑)にされてる子なんていくらでもいるはずだと思うが、なんでその中から又兵衛がチョイスされたんですかね。光さんは「なんで殿がこの子を連れてきたかよくわかりました」って納得してたからいいんだろうけど、その物わかりの良さが私には分かりません。官兵衛夫婦はふたりともとてもできた人で仲も良く、安心して見ていられるといえばそうだけど、生きてる人間の生々しい心っつーものが感じられないのでどうも素敵に見えない。まあともかく子役の顔がくそかわいいドラマではあります。

京進は相変わらずバカだし。前々から思ってたんだけど、この世界の「家督相続」「隠居」「家臣の序列」みたいなのがどうもよくわかんない。家督を継いだ以上、御着に出仕するなどオフィシャルな場面で表に出るのはむろん官兵衛になろうけれども、黒田家の内政や領地経営など内向きのところではすべて「大殿」が同席して補佐するのが自然なんじゃないかと思う(かんべの家臣だって若輩者ばっかりなんだし)。なんたって家中・領民一同、生きるか死ぬかがかかってるのだ。今回ラストで官兵衛は30才だったらしいんで、そのころにはまあ独り立ちしててもいいと思うが、家督ゆずってすぐから囲碁三昧だった。御着での評定も、家老とか何とか、小寺では家中での序列ってそんなにハッキリしてるもんなんだろーか。黒田・櫛橋ともに当主が若くなっても席次や当主に対する影響力って全く変わんないもんなんだろーか(変わらないのならば、先代が没している櫛橋はともかく、なおさら黒田は恭平がしっかり背後から舵取りするべきじゃなかろーか。青二才がヘタな判断すると主家も滅びる)。磯部勉や上杉祥三はバカな家来としての役割しかないのか。

こーゆーのは枝葉末節といえばいえなくもなく、厳密な考証でなくてもよいんだけど、ドラマ(創作物)としての世界観に基づいて矛盾や違和感のないようにしてほしいんだよね。乱世乱世と言いながら、家老の家柄の当主が「姉妹ネタ」で義弟を説得しようとするとか、壮健そのもので親子仲も良好な父がセカンドライフを満喫してるっぽいのとか、どうにも緊張感がない。

御着の城で、全員を向こうに回しての官兵衛の「織田につくべき」演説はすごくかっこよかったです。岡田くんは静の演技も動の演技もどっちもすごくいい。ああいうふうに熱弁ふるっても、なんというかとても自然なんですよね。「がんばってます」感、「見て見て」感がない。さすがだと思います。問題はやはり脚本。

視聴者の私たちは、あわや天下統一というところまでいくのが、毛利ではなく織田であること、つまり「正解は織田」であると知ってます。だけどドラマの中では違う。善助と太兵衛が織田軍(これは結局、荒木軍とは違うの?)を見たとはいえ、織田も毛利も、どちらも伝聞でしか知らない状態での、ものすごく難しい判断。もちろんそれを過たずにできるところが官兵衛の「軍師」性質たるゆえんだろうし、官兵衛の主張は理路整然としたうえ聞く人をその気にさせる勢いもあって(だから鶴太郎が説得された)、いかにも「正解」だった。門閥にこだわらない家臣団とか、自由な商業とか。久々に「孫子」(だったっけ?)も出てきました。

でも、なんか違う。物足りなさを感じる。去年の「八重の桜」の6話だったから同じくドラマ序盤、「会津の決意」で、京都守護職を受けるときの主従の悲壮、深刻はどうだったでしょう。そりゃ、時代も状況も作風も違うけれども、生死を分けるかもしれない決断なのだから、「ひとりの賢人 vs 無数のバカ」みたいな図ではなく、小領主といえど、いや戦国の小領主ゆえの気概や悲哀、思慮深さや狡賢さやバランス感覚で命脈を保ってきているはずなのだから、そういった前提で、官兵衛が導いていってほしかったなあと思うんである。

だいたい、信長につくのは利もあるかもしれないけどリスクも明らかに大きいですよね。どくろの杯は噂の域を出ないにしても、叡山焼き討ちとか一向一揆の女子供皆殺しとか、その辺の織田の残忍さ、それがいつどのようにして我が方に向けられるかもしれないリスクを、軍師官兵衛さんはどのようにお考えなのでしょうか。私ならそのあたり拝聴しないととても納得できないわ。

ま、いろいろ理屈はつけてみても、ともかく播磨という井の中の蛙の官兵衛やんは、進取の風の吹きすさぶ織田に憧れがあった、ってことなんでしょうけど、そういう憧れ感描くには、官兵衛ったらもう当時じゃ壮年期入ってそうだからね。そんなこんなで、ついに信長とごたいめーん!となるわけだが(ついにっていうか私の感覚ではずいぶん早かった、官兵衛もう30才って、紆余曲折しながらアイデンティティ作り上げていく青年期はもう終わっとるんやね…確かに既に人格者だけど過程がなくてつまらん…泣)、この場面で、思った。

いくら村重の紹介とはいえ、たかが播磨の小領主のそのまた家臣が拝謁に来たからって、あんなに勢ぞろいで迎えられ、しかもいきなり信長本人に会えるのかな? まあそこはドラマだし、信長の革新性ってことにしてもいいんだけど、や、思ったのはそれじゃなくて。「ここで初めて(ドラマに)信長が出てくるんだったら、すごく盛り上がったんじゃないか?!」ってこと。

つまり、信長については、秀吉とか勝家とか、あるいは村重や御師とか、周辺人物に言動を語らせ、信長の命で右から左へ動かされる彼らを描き、その巨像を膨らませるだけ膨らませておいて、視聴者も官兵衛と同じ瞬間に初めてそのご尊顔を拝するってことにしたほうが良かったんじゃないかと。「キタキタキタキターーーー!」ってなるでしょ。

今日まで出し惜しみするべきは、おね@黒木瞳じゃなくて江口信長だったんだよ。私はあんまり趣味じゃないけど、竹中直人黒木瞳のハイテンションな小芝居はこのドラマに少ない陽性部分なんだから、最初からやんややんややってりゃ、盛り上がるやん。小一郎秀長と蜂須賀小六だっていい雰囲気なんだからさー。黒田家中との対比や類似の描写にもできるし。

だってこれまでの信長サマったらあんまりひどかったもん。今回も、濃姫が出てきたかと思えば「叡山と一向一揆はどういうつもり?」と質問して、信長さまの親切すぎる説明タイム…。ださい、ださすぎる…。しかもその話、今かよ!てなもんだ。そりゃ信長は戦国大名だからあっちゃこっちゃ行って留守がちだったり、吉乃はじめ他の愛妾も多くいただろうけど、テレビも新聞もメールもない時代、播磨のちっぽけな家にもとっくにその情報、届いてるのよ?! でも、相撲の所作は面白かった。信長といえば相撲だもんね。