霜月の六 / 東北発☆未来塾・陸前高田市

●11月某日: 台風30号の被害に遭ったフィリピンの惨状がひどい。「ネットで1,000円を確実に3,000円にする方法」という見出しのリンクがついたツイートがRTされてきて、怪しげなライフハックかと思いきや、ネット上から(日本円で)1,000円の寄付をすればフィリピンでは3,000円以上の価値がある、という呼びかけなのである。義援金といえば、東日本大震災の際に、糸井重里が「これからは、自分を3日くらい雇える金額を相場にしたらどうか」という提案をしていたのが印象に残っていて、心に留めている。報道でこういった未曽有の災害を目の当たりにするときにいつも震えるように思うのは、「決して他人ごとではない」ということ。台風、大雨、竜巻、そして地震。いつどこに来てもおかしくない。2005年に一人暮らしの部屋で福岡西方沖地震震度6弱)に遭った瞬間も、「ついに来たか!」と思ったものだ。

そうだとしても、(あたりまえだが)やはり東北や福島とは温度が全く違うのだな、とあらためて思ったのが、先月のEテレ「東北発☆未来塾」だった。1か月ごとに何らかのプロが講師と東北の若者たちに復興への道しるべを授ける。10月の講師は陸前高田市の戸羽太市長。46歳、被災の1か月前に当選したばかりだった。ローティーンの子どもがふたり。奥さんは津波にのまれ1か月後に遺体が発見されている。市の職員も1/4が亡くなった。

その後、彼はプレハブのような建物に移転した市役所に「まちづくり戦略室」をつくり、全国から人材を募る。霞が関の気鋭のキャリアを勧誘し、三重や佐賀からも担当者がやってきた。奇跡の一本松の保存には1億5千万円を要したが(寄付で賄っている)「これを見るために多くの人が来てくれたら、将来は4億にも5億にもなるかもしれない」との決断だった。公認ロゴマークを作って市の生産者・販売者が売り出すものに付けられるようにし、津波に襲われて作付ができない田畑ではテント内でレタスを栽培して、雇用を生み出す。それだけでなく「この栽培法自体を輸出する」腹積もり。テントは大人の男が3人もいれば組み立てられるし、栽培はコンピュータでできるので天候に左右されない。「中東などから研修に来てくれればそれもまた産業になる」。

海岸から1km以上離れた場所をかさあげして、住宅地を作る計画は遅々として進まない。ひとつは瓦礫の撤去を人力で行っているから。行方不明者の遺骨などが見つかる場合があるという。それから、計画地の地権者との交渉が進まないから。地権者は膨大な数にのぼり、今は東京など別の場所に住んでいる人もいれば、震災で行方不明になったままの人もいる。また、国との交渉も難儀である。公営住宅の1階に商店を入れようとしても、復興交付金は使い道が決まっているため認められない、などといったケースも多々ある。

若者の流出を食い止めるのも大きな課題だ。震災後、地元の若者を中心に津波が到達したラインに桜を植樹していくNPOを立ち上げた人は、「これから新たな町づくりをするこの町には、自分のようにチャレンジしたい人間にはチャンス」というようなことを言っていた。桜は、全国からいろいろな種類を集めているという。植樹といえば、市では将来また津波警報が出されたときのために大きな避難道路を建設する計画だが、その脇にハナミズキを植えていこうと活動する女性も紹介されていた。彼女は、市の職員だった20代の息子をなくしている。人々の避難を誘導していて津波にのまれたのだ。夢に彼が出てきて「みんなが安全に逃げられるよう、目印になるハナミズキの道をつくってほしい」と言ったんだって…。

戸羽市長に精力的な仕事ぶりは地元の希望のひとつだろうけれど、彼の気力の源にあるものを思うと胸が痛い。また、今月に限らず、未来塾に参加する受講者や、番組最後のコーナー「未来への芽」で復興に関わる活動をしている若者たちは、みんなすごく意欲的で、意見もはっきり言うし行動力もあって、自分が高校生や大学生だったころを思えば信じられないぐらいだけれど、震災が彼らをそのように育てた、という部分があることを思うととても複雑な気持ちになる。受講する若者たちも、若者に知恵を授ける地元の大人たちも、多くが震災を経験していて、彼らがそのことを語るのを見るとき、いつも泣いてしまう。

そういえば、「未来への芽」のコーナーでは、震災の語り部活動が紹介されたこともあった。「大人たちは震災のことを話したがらない」と感じた高校生たちが「自分たちで喋ろう」とサークルを作る。ボランティアで来た海外の人たちに向けて、練習して英語で語りかける場面が放送された。ボランティア向け宿舎での語り部活動。「恩師の先生にたった一言、ありがとうと言えなかったことをとても後悔している。もしあなたに大切な人がいるなら、『大好きだ』ということを伝えてほしい」。長い手足を浴衣に包んだ白人の女性たちが涙していた。