『AKB白熱論争』を読んでのAKB考 3

AKB48白熱論争 (幻冬舎新書)

AKB48白熱論争 (幻冬舎新書)

興行に話を戻すと、AKBが異端の存在だとしても、それ以外の芸能界が綺麗なだけの世界だと思っている大人はいないだろう。見えていないところに、陰湿な部分、残酷な部分があることは容易に想像できるところだ。

対して、AKBのキーワードは「ガチでオープンで本気」。その真骨頂が、お金で投票権を買う総選挙であり、ファンにとっては大祭である一方で、アンチAKBの温床にもなるけれど、本書の4人のヲタたちの総選挙礼賛はすごい。

  • (お金と人気との相関関係を隠さないことについて)むしろ若い子たちを教育している面がある。お金が大事じゃないなんて建前なんだから。
  • 納税義務を怠っても剥奪されない選挙権より、汗水垂らして稼いだ金で買う投票券のほうがよほど価値があるではないか。
  • 所属する組織によって投票先を決められることもないし、本当の意味での「清き一票」だ。
  • 風が吹いたりチルドレンだったりの一時的な状況で決まる選挙よりもずっとフェア、かつ苛酷なんだぞ。

また、AKBの選挙に見られる「公共性」についての言及には驚かされること必定!

  • 一年間の活動を真剣に評価されること、何年もかけて候補者を選ぶところからアメリカの大統領選挙に近いものがある
  • 「この子が好きだから」という投票ももちろんあるが、「AKB全体のために彼女が必要だ」なんていう公共心や、「今は優子をトップにしないと全体が崩れる」「峯岸や河西が今すぐという選抜から外れていいのか」という感覚に基づいて投票する人もいる。
  • 会場の武道館にあふれる一体感。日本中の何万人ものファンの投票で決まったなら、どんな結果であっても受け容れようという感覚が共有されている。

かつてオタクとは、公共性に反したり、逸脱したりする存在だと思われてたけど、AKBヲタの実態はこうだというのだ。ただし、総選挙初期には、アンチ前田ファンによるブーイングなどもあった。徐々に生まれ、育まれてきた公共性を、4人の論客は誇らしく語る。

履歴書と10分やそこらの面接で判断される就職活動や、メディアが政治家を叩く空気に流されて票が浮遊する日本の選挙。それらの「正当性のなさ」に比して、AKBの選挙に票を投じる人々は「正当性の手ごたえ」を感じており、それはアメリカの大統領選にも類似しているという。大統領選挙では、いろいろな地方選を積み上げ、ステップアップしながら候補者を選んでいく。党の候補者が決まる頃には、「彼しかいない」という公共性の「空気」ができあがっている。AKBの選挙でも、1年間の活動をじっくり見て、十分な長さに設定された期間に投票できるため、結果に正当性が感じられやすい。

ただしもちろんそれだけではなく、「AKB選挙のゲームとしての完成度の高さ」の指摘もある。

1票の格差も少ないし死に票もない。複数投票で政権=センター争いのダイナミズムを味わうこともできるし、1票が重い下位メンバーの当落を左右するゲームも楽しめる。何より、「この1票が彼女の人生を決める」という実感を得られる仕組みになっている。

この発言者、宇野は、「ゲーム感覚の選挙に対する批判」に対して、「劇場化、という言葉があるように、古代から政治には祭りや物語の側面がある。すなわちそれが現代ではゲーム感覚になる」と反論している。道理だと思う。政治の選挙においても、物語の付与やゲーム感覚はつきものだろう。

議員の候補者にも、ほかのアイドルや劇団にも、スポーツにも、私たちはつねに物語を見出している。だからこそ感情移入できるのだ。けれど選挙で落選しても、端役ばかり演じていても、あるシーズン成績が悪くても、もちろん本人たちはつらいだろうが、基本的に「彼らの人間性そのもの」が否定されるわけじゃない。

AKBが特殊なのは、ゲームの駒が「生身の人間」であるばかりでなく、「年端のいかない少女のすべてをダダ洩れにしたうえで判定する」システムになっているところだ。「すべてをダダ洩れ」というのは本書の中の言葉で、「人格も含めてすべて丸裸にしてしまう」とも言い換えられている。

だからこそ1票が彼女の人生を決めてしまう。だからこそAKBは、総選挙は、面白いのだ。

順位を上げた子、下げた子。あらわれる新星、選抜を去る古株。光と影との両方がいちどきに見られる、ということ。とりわけ、人は「影」に惹かれ、心を寄せ、興奮もする。今や安いギャグになってしまってる(といっても私キンタロー。も好きなんですけど)「私のことは嫌いでもAKBのことは嫌いにならないでください」という前田敦子の言葉のあまりの切実さには、当時、鳥肌が立ったものだ。本書では、「あれこそ、巨大な無意識に判定することに耐えた人間の言葉」と評し、翌年の総選挙終了直後の大島優子について「今まで見えていなかったものが見えたような、AKBの1位になった者しか持ちえない特別な「影」を帯びているように見えた」と描写する。

神様にも母さんにも誓って「ガチ」だからこそ、そこまでのものが見られる。それはまさに公開処刑なのだが、そのある意味の残酷さについて、本書ではすごい説明がなされる。「夢見る者への罰」だというのだ。後半部分では、さしこ=秋元康のコウケイプロデューサー説が出たり、秋元と糸井重里柄谷行人との比較論があったり、AKBと資本主義・グローバリズムとのかかわりについて考えたりなど、とにかくバラエティに富んだ1冊なのだが、私にはこの部分が、この本の白眉だった。

AKBは「反・戦後日本」「反時代的」な存在。力量を試されることもなく、そこそこうまくやれるのが今の時代。「勝負しない仕組み」ができていて、大人は「夢を持て」というけれど、いざ若者が夢を語り出すと「現実を見ろ」という。実際、公務員や終身雇用で働きたい若者が多くて、夢なんかない。そんな時代の方向性とは逆に、すべてを晒されて勝ち負けを判定されるのがAKB。そういう圧倒な反時代性があるからこそ、これだけ熱狂的に支持される。では、なぜ、彼女たちは裁判にかけられ、国民の前で公開処刑されるのか。これは、「夢を持つことに対する罰」。明らかに現在の日本の許容度を超えた夢を持っている。そんなに可愛くもない子が大きな夢をもって実現しかけている。それに対する罰ですよ。AKBは、「ガチ」ですべてを晒すことと引き換えに夢を語るシステムなんです

この中森明夫の発言(註:引用に当たってわたくしemiが要約してます)に、小林よしのりは始め「すごい話になってきたね」と相槌をうつが、ほかに同席の2人と共に、この発言を受け容れる。なんかほんとにすごい話なんだが、それだけにインパクト大で、頷いてしまうところがある。彼女たちの人気の源泉は、「ガチ」ですべてを晒したあげくに、あからさまに順位を決められること。その一部始終を見届けるスリリングは無類だ。