『泣くな、はらちゃん』 8話〜最終話


8話の感想が書けないままに時間が過ぎて、9話、10話と、連続して録画を視聴。ぐずぐずに泣きながら見終わる。なんだか、整理せずに、胸がいっぱいな今このときの気持ちを書き残しておきたい気がして、書く。

8話のラスト、テレビの冒頭には度肝を抜かれた。うわ、そこに触れるんだ…みたいな。過去の戦争、保健所で殺処分を待つ動物たち、飢餓と飽食、現代の戦争(だったかな)、そして津波のあと…と映ったときに鳥肌が立った。ここに到達するのか!

戦争とか、貧富の差とかならともかく(努力していこう、という方向に描けても)、災害にまで(しかも、現在進行形の災害にまで)触れちゃったら、もうどうしようもないやん!と思った。そこは本当に、こっちの世界の神様の領域なんだよ! こっちの世界の神様も、越前さんに負けず劣らずダメ神なんだよ!

でも、ああいうふうに、思いもかけないタイミングでこの世界の深い暗部に触れてしまっておそろしくなる、って、実際子どものころにあったなあ…と思い出した。小学校1年生で、初めて「平和授業」を受けたときとか、テレビでやってた「楢山節考」のクライマックス(老いた母を山に捨てる)をなぜか見ちゃった、とか。私ほんとに怖がりな子どもだったので、そのときの恐怖を、今でもすごく鮮やかに覚えてる。ものすごく適当に、親にいなされることも(笑)。

それで、次の9話で、男たちみんなで怖い怖いって言うんだけど、それでも何となく「この世界が好き」という気持ちを持ち続けているはらちゃんの姿にぐっとなる。そう…この世界は愚かだったりおそろしかったりするんだけれども、この世界の中で弱い存在である子どもは、「それでも好き」と思い、「この世界はすてきだ」と信じて、歩いて行ける強い力をもっていて、だから子どもはこの世界の希望なんだよね。

そして、子どもが強くこの世界=自分自身を肯定できるのは、親が、世界が自分を愛してくれている、という確信があるから。

大事な仲間たちを理不尽に傷つけられたはらちゃんには憎しみという感情が芽生える。衝動にまかせて人を殴りつけた拳が、そのために傷ついて、痛む。そこで、はらちゃんの神様(=この場合、親)である越前さんが、泣いて謝るんだよね。はらちゃんを責めるんじゃなくて。あなたにこんなことさせてごめんなさい、と。それで、はらちゃんはスッと我に返って「私を嫌いにならないでください」と言う。憎しみを知っても、暴力というまちがった手を使ってしまっても、はらちゃんには好きな人がいて、はらちゃんを愛し庇護しようとしてくれる越前さんがいるから、暴走しない。まっとうなところに戻ってこられる。だから、はらちゃんは世界を肯定し続けられる。

はらちゃんたち(子)―越前さん(親)という関係性は、越前さん&ヒロシ(子)―白石加代子演じる越前母(親)にそっくり投影できて、越前母はとにかく子どもを受け容れる。ヒロシがろくでなしでも、越前さんが後ろ向きでも。越前さんがノートの世界に入っていったときですら、「いい笑顔だわ」とほほ笑んだのが、その最たる例で、あのシーンにも小さく鳥肌立った。お母さんってここまでできるのか!と。しかも、帰ってきた越前さんは不機嫌に「ただいま」と言うだけ、越前母は怪訝な顔して「おかえり」と言いつつもそれ以上は問わない。

越前母は自分の子どもたちを完全に許容してるから、子どもが連れてきた子ども=はらちゃんたちのことも、まとめて受け容れることができるんだな。こういう寸法だと、キャパシティってどんどん広げていけるわけで、これは、世界をどんどん広く、すばらしくしていく可能性を秘めたメソッドだなと思う。

や、お母さんだって未熟な人間のひとりですから、こんなに完全無欠に振る舞うのは無理ッスよ…。でも、親って存在の、気持ちはこうだよね。子どものすべてを受け止めて愛したいし、底の底ではこういう感じだよね。

いったんノートの世界に入っていった越前さん*1は意外に早く現実復帰するんだけど、それが、ロクデナシ弟の「姉ちゃんがいなかったら俺が働かなきゃいけないじゃん」っていうろくでもない理由による呼び戻しだったってのも、なんだかよかった。あれは照れ隠しでもあるんだろうけど、奴の数々の所業を振り返るに、セリフ通りの気持ちも多分にあるに違いない(笑) や、ヒロシ(家族)のために犠牲になることの是非…って問題はここでは取り上げるべきじゃなくて、恋とかみたく運命的な間柄でなくても、ささいな理由や間柄でも、人と人はつながってて、あなたを待ってる人はいるんだよ、ってことだと思います。

さて、そのあと、はらちゃんが「玉田工場長に聞いた」と「新婚さん」を言い出したとき、「つ、つつつついに、最後はついに、セックスに触れるのか!!!!」と閃いて歓喜した震え上がった私だったんですが…これは空振りでした(笑)。

や、でもね、「死」に触れて、「家族」や「世界の違い」について考えて、「ロック=それでもすばらしい世界」の一幕や、「愚かでおそろしい世界、そこに染まっちゃうかもしれない自分」も経て…「あなたが幸せであることを望む」という「愛」にまで到達できたはらちゃんは、もう体だけじゃなく、精神まで大人だってことだから、セックスしちゃってもいいんじゃないかと思った。

というか、人は、そういう、抑えきれずにあふれ出す「愛」をベースに、このロクでもない(ところもある)世界で身体を重ねずにはいられないんじゃないか、新しい命を求めずにいられないんじゃないか、と思ったし、このドラマを見ている小中学生にも、そういう説明って可能なんじゃないかなーと、なんか、はらちゃんの口から「新婚」の一言が出た瞬間に、ババーッと、そう思っちゃったんだよね…。うん、ま、大筋のセックス理論(?)としてはまちがってないにしても、いろいろ細かい、枝葉の問題がありますので、やっぱりそこは突っ込まないですよね(笑)

はらちゃんが、こっちの世界のみんなと、それぞれお別れしていくのも良かった。みんな、はらちゃんが帰ることを承知してて、悲しいけど、それがベストだと思って、ちゃんとお別れするんだよね。田中の、「もっといろいろ聞いてください」にマジ泣きしたぜ…。「一緒に何かをしたい」って気持ちであり「相手のために何かしてあげたい」って気持ちであり…田中とはらちゃんはズッ友だよ!!

てか、田中=丸山隆平くん、ほんとよかったわー。4話か5話くらいからは、彼が出てくるだけでキュンキュンする始末だったわ。はらちゃん、越前さん、あくまちゃん、誰と絡んでもすごくいいんだよ! かわいくて情けなくておかしいんだよ! 

正面に向かい合うのではなく、そっと寄り添って、「ケーキ入刀みたく」一緒にページをひらいて、帰っていくはらちゃん。それが「物語」。

ページを開けば、いつでも、いつもの素敵な連中が笑ってる。つらいときに思い出せば、傘のように、風雨から身を守ってくれる(だからタイトルバックは雨なのか、傘をもってるのか!と感動)。この世界を生きていくために、大好きな物語を携えていくこと、その力。

そして、物語を通じて、私たちは価値観を再構築することだってできる。物語を読む/見ることで、私たちのこの世界を、新しい、みずみずしい目で見つめなおすこともできる。

「すいか」以来、寓話的によくできたドラマの流れがあるんだけど、ほんと、「ここまで来たか―」だったね。前にも書いたけど、その主人公が長瀬くんなのが、ものすごい説得力で、ものすごくうれしいのでした。

あと、今クールのドラマって、「はらちゃん」のかまぼこ工場、「最高の離婚」の自動販売機取扱業者、「シェアハウスの恋人」の事務機器メーカーの支店…と、妙に等身大の職場や仕事風景が提示されてて、なんかそれもよかったなあ。まったく職場が定まらず、転々とする「純と愛」のもこみちみたいなのも妙にリアルだったけど。

*1:ここで越前さんの下の名前がわかるかなーと思ってたんだけど、結局最後までわかんなかったよね。あれ?私、見逃してます?