1/6 NHKスペシャル 「父と子」 〜市川猿翁 ・ 香川照之〜 1

香川だけを相手に、厳しく「小栗栖の長兵衛」「将軍、江戸を去る」の稽古をつけたのち、猿翁が眼鏡をはずし、あふれる涙を拭いながら「いい芝居だ」と言うところで私も涙腺決壊。新参者の弟子として鬼気迫る表情で稽古に臨んでいた息子が、今度はどこか父を宥めるような和らいだ調子で、「ありがとう、お父さん。がんばるよ。見てくれてありがとう」と父の手をとって言う。稽古場からの去り際、一言「大丈夫だ」と、父が息子を励ます。

多くのキャストやスタッフが入って行う稽古場に、ある日、浜木綿子がやってくる。猿翁の椅子のもとに跪いて、「照之どうですか? 政明も…。よろしくお願いしますね」と頭を下げ、「なんだか涙が出そう」とひとりごちる。こっち(私)は既に号泣だ。

後日、浜へのインタビュー。「あの子が家族の血、澤瀉屋の血、それをすごく重視して、自分の力で何とか立て直そうと思ったんでしょうね。だから私も自然にそちらのほうに思いがいったというか…」そのあとで、笑って「でも、望んではいないですよ」と付け加える。香川の襲名発表以来、あちこちの公式の場に登場したりインタビューに応えたりするこの人を見たが、いつでも美しく、毅然としていることに驚かされる。よどみない言葉、ハッキリとした意思表示。きっとずっと、こうやって息子を育ててきたんだろう。簡単にできることじゃない。

襲名披露公演「小栗栖の長兵衛」、最後の見せ場。「さあ、日の暮れねぇうちに」のバッチリのタイミングで客席からかかる「中車!」「澤瀉屋!」の声に続けて「ひとっ走りだ」。堂々と言挙げして花道を去る姿に、ホロリとくる。

リハビリの激痛に耐える猿翁。8年ぶりの舞台化粧。化粧道具を操る手つきが存外にしっかりしている。

見ながらあんまり泣きすぎて、何でこんなに泣けるのだろう、と放心状態で考える。この親子を、かわいそうだという思い、彼らの過去がとびきり不幸だった同情して…ではない気がする。こういうのを見てるとき、マズロー欲求段階説じゃないけど、「でも衣食に不自由したことはないよね」=「もっと根源的な不幸ってあるんじゃないかな」という気持ちが心のどこかにあったりもするし。

ただ、人はそれぞれ誰も、自分ではどうしようもない運命を背負っていて、運命に流されたり、逃れようとしたり、さして考えることもなく甘受したり、様々な処し方がある中んだけど、この人たちの、「運命を受け容れた上で乗り越えようとする」とでも言うのか、必死に足掻き続ける姿に、どうしようもなく胸をつかれるんじゃないかと思う。

こんなにも真正面から自らの運命に対峙する姿。

だから、偉大な歌舞伎俳優のただ一人の息子に生まれながら親の都合で絆が断絶して、その欠落感をずっと抱えて生きてきて、父への思い、歌舞伎への思いが抑えきれず、幼い自分の息子を“あるべき姿”にしてあげたくて…という香川のモロモロの気持ちは、この番組を見ても、やっぱりわかんないし、わかんなくていいんだと思う。それを「わかる」というのは不遜だし、かといって「だってわからないもん」と切り捨てるのも違う気がする。

わからなくても、あれほどの覚悟で乗りこんで苦闘する姿を見たら、やっぱり泣ける。45や6にもなって、「名を捨てる」って相当なことだ。国内でも指折りの役者として名を馳せてきたのに。これからあと40年生きられたとしても、その年数を歌舞伎に捧げたとしても、彼がこれまでの20年にわたる努力の末に映像俳優界で築いてきたほどの名声は、ほとんど絶対といっていい、得られないんだよ。

父と手を取り合って涙する瞬間、同じ舞台に立てる喜びをかみしめる日々だって、永遠ではない。遅れて始めた劣等感や焦燥感は生涯つきまとうだろうし、舞台に立つたび、映像の世界にいればもはやありえなかっただろう酷評が書かれるだろう。あの賢い人が「一生かけて精進する」と襲名の口上で述べたのは、それらすべてを含んでいるんだと思う。「それでも目指すものがある」という人を、私はこれからも固唾をのんで、時々泣きながら、見つめ続けると思う。