『大奥』 第6〜7話

捨蔵の幸せは、ほんのつかの間でございました(泣)。や、原作読んでるから知ってたんだけどさ。窪田くんの捨蔵の演技は、重盛の時よりもさらに「これがベストとは思わない」んだけど、それでもまあいいやって思えるほどのチャーミングさがあるなあ。あ、でも、有功に向かっての「けどねえ、今日から俺の名前はお楽っていうんですよ。それはそれはありがたいことに、上様がつけてくださったんで」のひとコマは、完ぺき〜!!て思った。

重盛といい捨蔵といい、見てないけど走馬灯株式会社では首つり自殺しちゃう役だったというし、今年の薄幸俳優・オブ・ジ・イヤーは窪田くんで決まり。こんな役ばかりで、よくもまあここまでブレイクしてくれたことよ(詠嘆)。

そのほか、

  • 「よかろう 今度は その男の 子を産めというのなら 産んでやろう」のシーン
  • 六人衆に田畑永代売買禁止令を言い渡すシーン
  • 家光と玉栄の初閨での会話
  • 臥せった春日局の部屋に現れ颯爽と介護する有功

など、原作で好きなシーンが映像で見られて、どれもなかなか良いシーンになっていて、満足しました。玉栄の田中聖くんは、既に立派な大人の年だし、ドラマの開始時点から背も高く体もがっちりしてるので(あたりまえだが)、お稚児姿がちょっと苦しいかな〜とも思ってたんだけど、前髪を落とした初閨のシーンではちゃんと初々しく見えていて良かったです。

基本的に、原作の格調高い迫力満点のセリフをそのまま用いながらも、随所に付加がある。原作のミニマリズムがすばらしいだけに、ちょっと「贅肉つけやがって…」なんて思ったりもするが、7話で、閨の家光が玉栄に言う「有功はおまえが好きなのだ」とか、翌日に有功が家光に言う「あの子は私の分身のような気がするんです。私が光ならあの子は影。私が影ならあの子は光」のセリフは、なるほどな、って思った。

有功がなぜ自ら頼んで玉栄を側室に上げたのか、原作ではまったくといっていいほど説明がなく、解釈はまるきり読者に委ねられている。そこで説明不足を感じさせず、むしろ知性の香り高いのが原作のすばらしさなんだけど、ドラマではより親切に、わかりやすく、ひとつの解釈を提示している。

イケメン且つすばらしい人格者である有功を玉栄が慕うのは自然なことと感じられるんだけれど、大奥に来てからの有功は、僧侶時代のように聖人君子ではいられず、男として、人間としての「業」に悩まされ、巨大な組織の歯車として翻弄されている。彼のそんな姿を見ても、玉栄は決して幻滅しない。また、有功のほうから見ると、一心に自分を慕ってくれる姿は確かにかわいかろうし、大奥という名の牢獄に連れてきてしまったことに対する責任も感じていようが、玉栄をあそこまで重んじる理由は、一見ない気がする。

それでも、有功と玉栄があれほどに強い絆で結ばれているのは、互いが互いの分身だから、というのだ。

なぜ有功がそう思うのかといえば、それはきっと、玉栄が自分にないものをもっていて、自分のできないことができるから。若紫殺しにしても、お楽の一件を「すっとした」と言ってしまうことも、自分が心の奥深くに閉じ込めている修羅の部分を、玉栄が代わりになって表出してくれているように感じているから…そういうことですよね? 

だからこそ有功は玉栄が哀れで、何度も「いい子や」と言ってしまう。そして、自分に子種がないのならば、玉栄が代わりにもっているはずだと思い、また隆光(ピース又吉だった!)の予言した玉栄自身の運の強さから、必ずや家光に世継ぎを授けるだろうと確信した、と。

この解釈でいくと、原作では、単に玉栄の勝手な願望だと軽く読み流していた「私のことは有功さまほどお気にめしてはいけませんけど、お夏よりはお気にめしてもらわなあきません」のセリフも、違った響きを帯びてくるんだなと気づいた。有功の分身である玉栄が、知らず知らずのうちに察している有功の真意があのセリフ、とも解釈できるんじゃなかろうか…。

たびたび映される「有功と家光とが手に手をとって海を眺めている(=大奥の外に、ただ一対の男女として居る)」願望シーンも、ドラマオリジナルだ。あのシーンが強調されてきたことによって、有功が家光に早く世継ぎを産んでほしいと願うことにも、より生々しい解釈が生まれる気がする。有功は、もちろん、「世継ぎを産めば、家光が「世継ぎを産む道具」としての役割、性を踏みにじられることから解放される」と思っている。つまり、「家光自身のために」世継ぎを願っているんだけれども、そこには、世継ぎさえできれば、あの願望のシーンのように、自分と家光が誰にも邪魔されず、永遠の愛と自由を手に入れることができる…という、エゴもまた、存在している、と。

菊見の宴について春日局にガツンと言う姿にも、「今まで散々いいように扱われてきたけど、いつまでもおまえの言いなりにはならないぞ」という自我、反発心が、よりはっきりと感じられた。けれど同時に、病床の春日局を献身的に介護する有功。「(エゴイストであっても、抑圧されていても)それでもなお、すべての人の自尊心を尊重したい」という崇高さもあるんだよね。

ドラマをドラマティックに盛り上げる(変な日本語…)ため、ドラマでは、有功の人間くささや、業や、抑圧・運命との格闘を、ぐいぐい出してきてるんだなーと思った。