『雑文集』 村上春樹
- 作者: 村上春樹
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2011/01/31
- メディア: 単行本
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村上春樹の文章を読むと落ちつく。きわめて良質な精神安定剤のように、心がすーっと凪いでいく。やっぱり名文だからだと思う。大胆さや美麗さはなく、平明な言葉で、確実に書き手の文意を届けながら連綿と紡がれる文章だ。
豊富な知識やユーモアのセンスがある。軽い読み物では軽やかに、シリアスなテーマでは厳格にといった書き分けも当然うまい。でも、エッセイにしろ、インタビューにしろ、スピーチ原稿にしろ共通しているのは、速くもなく遅くもない一定のリズム。それがものすごく心地よいのだ。「この人は信頼できる」と確信させる。
この人は、見栄を張らないし、妄言・暴言の類を吐くことがない。物事をいたずらに大げさに言いたてたり、根拠なく断定したりしない。書くのは、すべて自分の目で見たり耳で聞いたり、コツコツと長きにわたって体感してきたことだけ。彼の書くものは本物で、吟味するまでもなく出来栄えに波がない。まるで一流のミュージシャンの演奏を聴くように、安心して身を委ねることができるのだ。
そして、良いタイミングで、惜しみなく繰り出されるキラーフレーズに、静かにエキサイトしたり、振り切れそうになるほど何度も首を縦に動かして頷いたり、ずんと心を撃ち抜かれたりしたらよい。
ということで山ほどあるキラーフレーズの中から今回わたしが引用するのはこれ。
偏見に満ちた愛こそは、僕がこの不確かな世界にあって、もっとも偏見に満ちた愛するものの一つなのです。
どれだけ枝葉が激しく揺れようと、根幹の確かさを信じる気持ちが、僕を支えてくれてきたように思います。
なんかこういうのって、はたち前後のころなんかは「けっ、かっこつけやがって」なんて思ってたけど(ん?考えてみれば、こういうフレーズって、若い時ほど「ステキ〜☆」てなりそうな気もするが、私はならんかった。)、今は、そこに行きつくまでに積み重ねられた文章の真摯さ、確かさを、若いころよりも理解できるようになったからか、「もうほんと脱帽です」て感じになる。
それから、初読の際の感想に書いてなかったので書き留めておこう。
「翻訳の神様」と題された文章は、村上春樹という現代の偉大な作家、文筆家についての、簡にして要を得た、非常に興味深い自己言及である。長年、彼の文章を読みながら、うすうす感じていたことが、見事に本人によって言語化されている。
つまり、村上春樹は作家であると同時に翻訳の仕事も長いこと続けており、そのことが彼の作品や文章にとっていかに必要不可欠であるかということ。英語で書かれた作品を呼んで「素晴らしい」と感じ、その作品を、自分の手を動かして日本語(という別の言語)に移し替える作業によって、単一言語で読んでいたときよりも立体的にとらえることができるようになり、「なぜその文章が、その作品がすばらしのか」という原理のようなものが、自然にわかってくる、というのだ。
これには納得させられる。大学時代、最初に春樹の文章にふれたとき、まず最初に感じたのは「英文和訳」の影だった。私は外国文学にはまったく疎く、しかも、「原文が透けて見えるような日本文」に、どうもすわりの悪さを感じるたちなので、それもあって少し敬遠する気持ちがあった*1。でも今は、彼ほど「確かな」文章を書く人はなかなかいないと思う。その「確かさ」は、英語で書かれた作品を、一文一文、愚直に訳してきたことからも得られているんだろうという感じがある。