ひらりと跳べ 2

今は、「オリンピックに出る人も、見てる人も、踊らされてるわけじゃない」と思ってる。確かにオリンピックって巨大なハコモノで、それが権力による“目くらまし”“臭いものにする蓋”になってる部分もあるんだけども、でも、そこで演じられているものこそが、それらの突破口なんじゃないかなと思うようになった。

優れた体をもつ人々が、技を磨き、心を鍛えて最高のパフォーマンスをしようと競うオリンピック。勝った人に対しても負けた人に対しても、私たちは感動し、涙する。それは、彼らが一様に、「挫折」とか「怠惰」、「不安」とか「限界」とかを乗り越えてきた人たちだから。周囲への感謝を忘れない人たち、責任転嫁しない人たちだから。「最善を尽くす」という言葉を体現する人たちだからだ。

世の中は理不尽にあふれ人生にはつらいこと苦しいことがたくさんある。また、人は、自分自身の中にある弱さから目を背けて日常を過ごしがちだ。そんな私たちに、あの舞台に立つ選手たちは、本当に美しく尊いものは何なのかを見せてくれる。すごく陳腐で手垢のついた言葉だけど、ここは使わざるを得ん。そう、彼らは勇気をくれるのだ!

「商業主義と国家主義の両輪で動くオリンピックという装置」に乗っかっているとしても、彼らは最終的には「個の力」(個の力を結集したチームの力)で戦っているんだと思う。世の中のシステムにしろ、自分自身の弱さにしろ、強大なものに立ち向かうために欠かせないのは個の強さ。個々の強さだ。強い人々を見せてくれるオリンピックはやっぱりすばらしい、と今は思ってる。

とはいえ、オリンピック・システムのすべてに迎合してお祭り騒ぎをするだけってのもな、という気持ちも残っている。安っぽく薄っぺらい感動で思考停止もしたくない。まあいい年をした大人なんだから、背景とか、裏側とかも注意深く見たいし、楽しさにかまけて見逃してはいけないものがあるとも感じる。

今回の日本のメダルラッシュには、国をあげての戦略的な資本投下があることはまちがいなく(柔道、水泳、体操などの伝統種目と、アーチェリーやフェンシングなど資金力・技術力が必要=先進国向きの種目をより強化している)、同じように北京のときから大幅な予算増でメダルを倍増させた地元イギリスを見ても、あれだけ国家が苦しいのに、選手数比でいったらおそるべき効率でメダル獲得している北朝鮮を見ても、今なお世界中でメダルによる国威掲揚が図られてるんだな、と思うと感慨に打たれる。

自分が好きな陸上競技では、おなじみの選手がトリニダード・トバゴとか、グレナダとかの代表だったりする。こういう世界大会でしか、ついぞお目にかからないような国々だ。「そこはどんな国なんだろう、どんな人々がどういう生活をしているんだろう」と想像もするし、「ナイジェリア初のメダルです」とか「ウガンダがマラソンで初めての、そして今大会たったひとつの金メダルを手にしました」とかいう実況を聞くと胸が熱くなる一方、これらの国でオリンピックを見ている人(見ることのできる人)はどれくらいいるんだろうか?と思ったりもする。

また、十種競技棒高跳びのような種目では、今でも欧米の選手が圧倒的に強く、前述のような国からは代表の派遣すら少ない。伝統もあろうが、資金やテクニックがより必要だからというのも大きいのだろう。あと、やっぱり徴兵の免除っていうのはすごいモチベーションになるんだろうな、とかも思うよね。(続く)