子ども1歳終わりました

今月初めに子どもが2歳になった。早い。早すぎる。

1歳の1年間は、振り返ってみれば楽しかったの一言に尽きる。「子どもがいない → いる」というコペルニクス的転回に始まった0歳は、無意識のうちにもいろいろな葛藤や格闘があったが、1歳にはそんな劇的な変化は無し。ただただ子どもは日々、かわいく成長してゆく。コミュニケーションがスムーズになり、片言を発し始め、歌ったり踊ったり走ったりする姿にも目を細めるばかりだった。

若いころは子どもが欲しい願望もほとんどなく、もともと人の世話をすることに喜びを見出すタイプでもないから、24時間育児だなんて甚だ心もとないと思っていたのに、意外にも、我が子にイライラすることはほとんどないのだった*1。なかなか寝てくれなかったり、暴れはっちゃくだったりすると、確かに疲れる。そろそろ体力で負けそうな予感もある。だから目を白黒したり、「フー」と青息吐息にはなるのだが、感情的に怒鳴ったり、手をあげたりという感じには、まだならない。

これは私が子育て環境に恵まれているがゆえでもあろうし(いつも夫サマサマ☆)、年の功もあろう。20代で積んだいろんな経験やそこから得た教訓は、確かに子育てに生かされる部分もあるのだ。

何より、まっすぐ自分に向けられる満面の笑顔。どこもかしこもすべすべの肌、抱きしめると伝わるぬくもり。じゃれあう楽しさ。手足がすくすくと伸びていることにある日気づくこと。毎日見ても見飽きない寝顔。泣き顔を見たって笑ってしまう。天秤にかけたら、大変さより、かわいさ、愛おしさの重みが余裕で勝る。

1歳台での戸惑いといえば、同じ年頃の子でもいろんな差異が出てくるってことかな。

0歳のころは、「育児=お世話」だから、おっぱいがどうとか、寝かしつけがどうとか、おむつとか離乳食とか、トピックはだいたい共通していた。それが1歳になったころから、こどもちゃれんじとかディズニーの英語教育とかをやり始める子とか、スイミングやリトミックに通う子がかなり出てくる。この辺では幼稚園前の“未就園”通園というのもさかんだから、その下調べや体験入学みたいなのをバリバリやってる母子もけっこういて、驚いたり気が重くなったりもした。

公園で出会ったとあるお母さんに、サクより半年以上も月齢が小さいご自分のお子さんを称して、「うちの子は協調性がないから、定期的に託児所にあずけてるの」と言われたときはのけぞったなあ。1歳前半で協調性って!! 言葉のアヤというもので、深刻な意味で使った語彙ではないとしても、確実にいえるのは、子育てに関するポリシーは千差万別ってこと。英語の教材を始めたことについて、「男の子だから、ちゃんと育てないとと思って」と言うお母さんもいたなあ。

こんなエントリで「子どもは賢く育てたい」と書いたのも本心だけど、基本、私はのんびり屋さん。ま、単にナマケモノともいうけどね。子どもをアッチャコッチャ連れて行って次々にいろんな体験をさせたり、オリンピック選手を育てた親を目指してひとつのことに専心打ちこませたりというのは、私にとっては「労」であって「楽しみ」ではない。もちろん、子どもと一緒にやることで「へぇ、こういう楽しみもあるんだな」と新鮮な思いを覚えることもあれど、できれば、子どもは子どもで、そのうち勝手に好きなことを見つけて、勝手にそれにまい進してほしいもんだ。私には私でやりたいことがいろいろあるわけだからさ。

それが私のスタイルってもんで、それはそれでいいんじゃないか、と今は思ってる。「みんながこんなことやってるのに」と思い始めると、「(それをやってあげないと)子どもがかわいそうなんじゃないか」とか「差がついてしまうんじゃないか」とか不安や焦りにとらわれるばかりだ。減点をおそれる子育てはなるべくしたくないな、と思う。そもそも機会均等なんて言葉は幻想なのだ。

すべてはナマケモノの言い訳かもしれないが、私は私らしく、おおらかに(おおざっぱに?)子育てしていきたい。「私らしさ」に自信なんてないけどね。三十路にしていまだ欠点の多い、至らない人間である。しかもオタクの気がある。

子どもが生まれてから、「こういう家庭で、こういうふうに育てられた結果、こういう自分になったんだ」というのを、それまでになくいろいろ意識するようになった。わりと放任されて育ってきたほうだと思うんだが、それでも、やっぱり親の影響って絶大。習慣や、思考回路をそのまま受け継いでいる部分もあるし、反発したり、反面教師として学んで、真逆をいってる部分もあるし、それらの複雑な mix もある。

一方で、親のまったく関与しないところで培ってきたものも確かに多い。「親がしてやれることなんてほんの一部だろうな」と思ったりもする。自分がいくらこうあってほしいと願っても、子どもが勝手に自分の望む方向に育っていく部分もいくらでもあるだろうな、と。

子育てに限らず、私は何に対しても、相反する考えでバランスをとろうとするタイプなんだな、と最近気づいた。今、中3の男の子の勉強を手伝ってるんだけど、「基礎学力は大事。受験という壁を乗り越えることは大事」と思う一方で、「たかが勉強じゃないか、そんなに目くじら立てなくても」とも思う。どちらも本心で、自分の中では矛盾していない。

ちなみに夫はといえば、「ジタバタしたって、結局は、なるようにしかならんさ」というのが信条なき彼の信条といったところ。ま、とにかくこの人は人間としての疵がほとんどなく、見かけによらず(?)器も大きく頼りになるので、息子も勝手にその背中に学んでほしいもんである。うーむ、とりあえず、「男子厨房を支配すべし」は我が家の家訓にすべきか。

ま、何を考えようが考えまいが、子どもはいずれ成長するのだ。そして、その過程では、人間の負の部分もまた洩れなく身につけていくことになるわけで…とよぎるときは、胸がしめつけられるような思いがする。立った歩いた喋ったと、成長のすべてを無邪気に喜んでいられるのは今だけで、やがてこの子も、臆病さや狡猾さ、妬みや劣等感を覚えていくだろう。傷つくことからも、きっと傷つけることからも逃れられない。

でも、それは生きていくことそのもの。そんな中でも、人は笑い、楽しみ、希望を見出していくものだ。子育てだってなんだって、“いいとこ取り”だけでは済まないけれど、怖がらず、委縮せず。まだまだ毎日抱きしめながら育ててゆくのだ。

*1:註:今のところ、ですよ。魔の2歳は今から始まるのだから…!