本気で本気を引き出す人よ・2

だいたい、あの監督と生徒との間髪入れない応酬が、高校時代から苦手だった。このドキュメンタリーでも幾度も撮られている。驚くのは、「いいかおまえら!」「はい!」、「本気で花園めざすとや!?」「はい!」、「やれるとや!?」「はい!」、「なら今すぐやれ!」「はい!」的な、「イェス」の表明にとどまらないことだ。

とある公式試合で宿敵(こちらにとってだけだろうが)・東福岡に85対0と惨敗したあとのミーティング。「いいかおまえら、これが勝負たい」「はい!」、「でもな、今日負けたのは先生のせいや」「いいえ!」、「先生のせいだから心配すんな」「いいえ!」 なんと「いいえ」バージョンまで繰り広げられるのである。私が知らないだけでラグビー部では昔からこうだったのか…?!

「はい」だけなら、先生の言葉が途切れた瞬間、条件反射的に一声叫べば良い。頭の中で「あー、喉渇いた。つーか腹も減った。今日の夜ごはん何かいな」と考えながらでも遂行できるだろう。しかし「いいえ」もアリならそうはいかない。心底から先生の言うことに耳を傾け、内容を吟味して、あれだけ素早い反応をしているというわけだ。すごい。すごすぎてむしろ怖い。君たち、それでいいのか。

さすがにラグビー部の前ほどではないが、彼に限らずこの学校の先生たちは、授業中や学年集会などでも訓示を垂れるときにこういう喋り方をすることがしばしばで、聴いている私たちは、やはりラグビー部ほどではないが、似たような反応をしていたものだった。つまり、ラグビー部が10秒に一度、先生の言葉尻で「はい!」と叫ぶなら、平時の生徒たちはもう少し長いパラグラフが終わるとき、およそ1分に一度くらい、「はい!」と声に出して返事をする習慣だったのである。

1分に一度でも私は嫌だった。概して集団行動や目上の人に対する行儀に厳しい学校で、「人の話は目と耳で聞け」というのが全校的なスローガンとして認識されていた。それ自体は良い習慣だと思う。しかし、一対一での会話ならともかく、ひとり対おおぜいという一方的な呼びかけに対して、いちいち皆打ち揃って肯定を表明するのはいかがなものでありましょう。

むろん教師が生徒に向かってそれほど荒唐無稽なことを言うはずはないが、聞いている私たちひとりひとりは異なる人格や考えをもつひとりの人間であり、彼らの言うことすべてに対して疑いなく頷けるわけではない。せめて、しっかりと聞き、頭の中でじゅうぶんに咀嚼してから「はい」「いいえ」「補足求む」「異議あり」などの思うところを表明すべきではないのか。元気のよい返事は、師弟の美しい阿吽の呼吸に見えこそすれ、その実、「返事をすることによって対話が完結し、己の頭で考えない」という機会損失のあらわれ、もっというなら教師による生徒への精神的なレイプではないのか。

…と、ここまで言語化して(大げさに)考えていたわけではないが、当時つねに胸にあった「いやーな感じ」はそういうことだったのではないかと思う。私はそこまで全面的に、教師に己を預け、委ねてはいなかった。ラグビー部内のミーティング場面を見て思い出したのは、その「いやーな感じ」である。番組内では、奇しくも、とある部員の母親が「部活は、先生と仲間たちとの聖域ですから(親は何も言わず見守るだけ)」と言う。それは先生や部活への全幅の信頼を表しているのだが、おお、聖域! その聖なる、だからこそ恐ろしい響きよ。満州事変二・二六事件も、「聖域」を原動力として起こされた事件ではないのか。(つづく)