『龍馬デザイン。』 柘植伊佐夫

龍馬デザイン。

龍馬デザイン。

著者の柘植は大河ドラマ龍馬伝』に“人物デザイン監修”としてクレジットされた職人。脚本演出の意図を正しく理解し、全体の調和をもはかりながら、登場人物の着物、髪型、小道具などを整えていく。何百人にものぼる登場人物をひとりの人間がデザインしていくのは、長い大河の歴史の中で初めてだという。ポストありきで採用されたのではなく、「こういうやり方をしよう」ということでポストの名前が作り出されたのである。

しかも、大河ドラマにおいて、衣裳、美術、小道具、かつら、メイクなど各部のスタッフは、基本的にすべてNHKの職員だが、それを統括することになった彼は局外部の人間だ。長年、仕事でつきあいのある福山雅治に誘われて、巨大な縦割り組織であるNHKに挑むことになったらしい。

そんなわけで、骨の髄まで苦しみ抜き、くたびれ果てることになった彼の、一年半にわたる壮絶な制作日記がこの本だ。「あーこれこれ、『龍馬伝』の色やわ」というシンプルな装丁の本を開くと、二段組で小さな活字がびっしり、それが400ページ近い。大河ドラマが小手先でチョチョイと作られているとは誰も思わないけれど、それにしたって想像を絶するくらいの産みの苦しみが克明に綴られている。

地面にも俳優にも女優にまでも雨あられと降り注がせて、砂埃や汚れた質感を表現するという、龍馬伝名物となったコーンスターチ使用の誕生秘話はもちろん、一年間出ずっぱりとなる龍馬や弥太郎の着る物・髪型で、どう変化や成長を描いていくかの大胆かつ微妙な調整、殿様や芸者にふさわしい反物探し、女優のまげの大きさや高さ、袴にタックは何本入れるか等々、決めていく事はいくらでもある。

その成果物である『龍馬伝』の役者たちの扮装が極めてハイクオリティで、これまでの大河と比較して明らかに異質だったのは、視聴者にも一目瞭然だった。けれど、革新的なことをしようとすればするほど大きな波風が立つのも必然で、硬直化したきらいのある局のスタッフたちの反発を招いたり混乱が生じたりという困難は枚挙に暇が無い。

高い水準での創作をへの欲求と、そこから生まれる数々のストレス。結果として、一貫してウマが合っていたチーフ演出(映画でいう監督ですかね)の大友啓史とともに、「撮るか飲むか」の日々が続く彼の日記は、「一年半の間、よくぞ体壊さずやりきったな・・・」と思えるレベル。本当に、壮絶なのだ。

そんな苦しげなものを読んでおもしろいのか?といえば、これが面白い。昔、高倉健が中学生?の質問に答えて「仕事なんて、ほとんどが苦しくて嫌なことばっかり。“良かったな”と思えることなんて、ほんの時々だよ」と言っていたことを思い出した。本当にそうだと思う。やってる仕事のレベルが違いすぎておこがましいけれど、仕事をしていたころの、同じ社内イコール究極的には同じゴールをめざしているはずなのに、各部で利害関係が対立して調整に苦しんだこととか、いいものを作るためには時間を気にしてはいられない、という感覚なんかも思い出した。

見た映画や読んだ本、目を通した雑誌の感想、人から聞いた話や、とりとめもない思索など、なんでもかんでも書き留められていて、そのすべてが、仕事イコール生きることにつながっていくようなところにも、日記のリアルさがあって面白い。しかも、この柘植さんという人は、美術や映画はもちろん、文学や哲学、宗教に至るまでなんと博識なこと。文章力もすごい(本人曰く、森鴎外の文体に影響を受けているとのこと)。仕事という「行動」と、この博識に支えられて深いところまで潜っていく「思考」、そのふたつの絡み合いが、この本を抜群に面白いものにしている。

また、撮影の合間に俳優・女優陣や監督等とかわした雑談が多く書き留められているのも興味深い。福山の自然体や香川のクレバーさはもちろん良いし、広末涼子蒼井優とのおしゃべりには素の部分が垣間見られ、故・児玉清武田鉄矢の含蓄・薀蓄にはうならせられる。

裏話的なものとして面白かったのは、伊勢谷友介演じる高杉晋作が末期の肺病に蝕まれたとき、龍馬ら人前では終始平静で笑顔でいるが、最後の最後、ひとりになると、海に入っていって激しく嗚咽するというシーンがあったのだが、あの最後の嗚咽シーンは「エクストラカット」と呼ばれるもので、脚本にはなく、監督の裁量で撮って使ったらしいということ。大胆不敵なキャラクターに描かれた高杉だけれど、若者が心底で「本当は死にたくない、もっと生きたい」と願うのは当然のことで、その悲痛さがあったからこそ高杉の死はより視聴者の記憶に刻まれることになったのだと思う。

などなど、大河ドラマの周辺書籍としては、画期的かつ圧倒的なこの本だが、惜しむらくは、軽さやユーモラスな側面の少ないことである(と、えらそうに書いているが、当のこの感想も少しもユーモラスじゃないぞ、私よ)。それは「龍馬伝」という大河ドラマにも感じていたことだった。ユーモアは、がんばって思い出して、「うん、香川照之?」くらいで、谷原章介桂小五郎大泉洋の饅頭屋長次郎、武田鉄矢勝海舟など、芸達者をそろえておきながら意外に笑わせなかった印象である。奇しくも、著者自身が「ドラマの作り手全般に軽妙さが足りない」と述懐するくだりもあるのだが・・・。第4部にもなると作り手たちの混迷と苦悩は頂点に達し、ユーモアの存在する余地などどこにもなかったようである。それにしても、彼らの熱量は凄まじいもので、数日かけて読み終わったあとはこちらまで脱力し、次に何を読んでいいのかわからなくなるほどだった。

ということで、いくつか引用。まずは、トータス松本が演じたジョン万次郎の扮装について。

ベストの胸の開きをどのくらいにすべきか、衣裳部が用意してくれた暫定の衣裳を本人に着ていただき、デザイナーの安藤さんと共にそれを基にしてミリ単位で検証していく。また襟をいわゆるスーツ型のものにするか、ラウンド型のものにするかなども検証する。これはA4の紙をベストに当てて、そこにペンでラインを書き込み仮のパターンにした。ベストの裏地は木綿のブリティッシュグリーン。

パンツにタックを入れるかという問題が発生した。ベストはピタピタだがパンツはブカブカの太めにしたい。そこに熊さんが来た。安藤さんの衣裳考証では当時タックは「無かった」の認識。熊さんは「有った」の認識。「有った無かった」の話になりそうな雰囲気が出始めたので、「それはわからないんですが、僕はデザイン的にタックが有ったほうが好きなので、それにさせていただけますか?」と仲介した。

(中略)シャツは大きなテーマである。僕は当初よりウイングカラーを希望している。そもそもハンティング用に使用されるツイード生地のベストとパンツに、フォーマル用のウイングカラーをコーディネートすること自体がルール違反である。しかしジョン万次郎という存在自体が既存のルールからはずれている。それをこのコーディネートで表現したい。衣裳部も安藤さんも全員賛成である。

(中略)ベストがタイトに対してパンツがワイドなので、ベストの袖ぐりから出るシャツの肩から腕にかけてのボリュームが最大の課題である。僕は不自然一歩手前のワイドを希望する。これは咸臨丸の甲板上に風が吹いたとき、トータスさんの腕に布の一部が張りつき、その余ったシャツ布に遊びを出し、一種の帆をイメージさせるためである。

マイケル・ジャクソンの最後の日々を撮った映画『THIS IS IT』を見ての感想。

映画を観て思った。「彼の誇りは失われていなかった」と。はじめのうちはやはり異形の感覚がマイケルに悲しみのような気分を纏わせていた。勝手にこちらがそう感じてしまうだけのことだがその顔は決して普通ではない。言ってみればティム・バートンの映画に出てくるような、人間社会から虐待され阻害されて孤独の世界に住む心優しい怪物のような容姿なのである。そしてその容姿に関する評価は最後まで変化はしない。ただ変化するのは観るこちら側の感情なのである。ダンサーのオーディションから始まりセットリストに沿った曲を歌っていく。その過程でメンバーやスタッフとコミュニケーションを重ねていく。ステージでは彼のダンスが披露されていく。一貫した態度はジェントルそのものでパフォーマンスを高めることだけに全ての精神、行為が集約されている。片時も緩むことはない。一点の隙もない。そのような作り手としてのマイケル・ジャクソンの様子を観て感じるうちに、彼の姿そのものを崇高に感じ始めるのである。それはかなり始まりに近いころから予感させるが「Human Nature」で衝撃を受けた。もはや人間ではない新しい存在なのである。どんな言葉が当てはまるのだろうか。おそらく「伝説」である。

ちなみに、彼は今年の『平清盛』にも参加しています。