『鷺と雪』 北村薫

鷺と雪 (文春文庫)

鷺と雪 (文春文庫)

ええっ、これで終わり?!と息をのんだ。昭和初期を舞台にした物語で、1作、2作と読んでいて、最後3作目のタイトルが『鷺と雪』だと知っていれば、そこで何が描かれるのか、自ずとわかろうというものだ。だから、十分に心の準備をしていて、それがどのように描かれるのか、あれこれ想像しながら読み進めていたのに。

唐突に突き放され放り出されてしまった。言葉にできない思いがぐるぐると渦を巻き、その興奮がようようおさまってから反芻して、震撼とする。賢く感受性の豊かな、けれどまだ少女の年齢である主人公・英子は、このあと何を知り、何を思ったか。それに私たちは、さらにその先の歴史までも知っている。輝ける青春と未来を約束されていたはずの彼女が、どんな世の中を体験しなければならないか・・・。暗澹とし、胸がふさがれるような心地になる。

何か良い材料はないだろうか、と、無意識のうちに私は考えている。そこで思い出すのが、影のように彼女に付き添ってきたベッキーさんだ。ベッキーさんが漢書を引いた「善く敗るる者は亡びず」。陸軍将校との問答「わたくしは、人間の善き知恵を信じます」。

それらの言葉は、物語の最後の事件を端緒に、長く続くさだめのつらい時代を経て、そののちに訪れる新しい時代を予期させるものである。同時にベッキーさんは「わたくしには何も出来ないのです」とも言っている。「前を行く者は多くの場合、慙愧の念と共にその思いを噛みしめる」と。この先の試練が容易に乗り越えられるものではないことを示唆するように。それでも、私たちは希望の言葉をよりどころにしようとする。人々が何度でも力強く立ち上がることを信じたいと願う。新しい時代が来たとき、英子は、なお若いのだ。

こんなふうに、本を閉じたあとも、先へ先へと、どこまでも想像が続くこと。その想像には、哀しみも苦しみもそして希望も、あらゆるものが含まれていること。それこそが作者の意図したところなのではないかと思う。ぶっつりと断ち切ることで、逆に、果てしないかのような広がりが表現された。

そして、最後まで読んで初めて、ベッキーさんという不思議な存在についても合点がいった気がする。博識で、進取の気に富んでいて、ホームズも真っ青の推理力で、きれいなお姉さんでもあって、それだけでなく、身を切られるような哀しみも知っている。何もかも、何もかもを見通しているような、まるで未来からやってきたかのような・・・・・・それはきっと、ある意味、真理なのだ。彼女は、未来の英子が投影された存在。大人になった英子なのだ。

『スキップ』や『ターン』の作品を読んでもわかるように、この作家の大きなテーマのひとつは「時」である。その強い思いは、この3部作の締め方にも、それから、昭和の始めという難しい時代を生きる主人公のそばに、ベッキーさんという時空を超えた存在を配したことにもあらわれている。ベッキーさんが未来の英子ならば、その存在こそがまた希望なのだとも思えるのだ。

それにしても、読み終えてから再び見ると、『鷺と雪』というタイトルのなんと重く感じられること。鷺と雪のシーンの美しさ、充足やほのかな官能、はかなさ、戦慄・・・。ほかにも、あらゆる古典や文学に造詣の深い作者が、全編にわたって散りばめたモチーフや暗喩、伏線。込められたメッセージ。もう一度最初から読んで、そのひとつひとつをじっくりと咀嚼したい、今、そんな思いに駆られている。まったく圧倒的な読後感なのだ。

cf ベッキーさんシリーズ第2作『波璃の天』の感想:(http://d.hatena.ne.jp/emitemit/20091012#1255357555