『我、言挙げす』宇江佐真理

21世紀になっても、なお、次々と新しい時代小説が刊行されるのは、そこに人間が生きるということに関しての普遍性が息づいているからだろう。1巻で1年が過ぎてゆくこのシリーズも8作目。伊三次とお文、同い年の夫婦は33歳になっている。

お文は“しがない”廻り髪結いを稼業とする伊三次と所帯をもち息子の伊与太を産んだあとも、生活のためにお座敷勤めを続けていて、稼ぎは夫より多いくらいである。もともとが男まさりを身上とする深川芸者であるから、口は達者で気性も激しい。江戸を舞台にしながらも、男と対等に口を利き、働きもするというヒロインの設定は、当然、作者の意図するところだろう。

惚れるのも惚れられるのも、昔のことだった。伊三次は、もはやお文の間夫ではなく、正真正銘の亭主である。それがいやだというのではなかったが、お文はつかの間、自分の来し方、行く末を思う。果たしてこれでよかったのだろうかと。稼ぎの少ない亭主の不足を補うためにお座敷づとめを続けているお文である。本当は家の中のことだけをして呑気に暮らしたい。息子の伊与太ともう少し遊んでやりたかった。三十を過ぎたというのに白粉をこってりと塗り、紅をつけて左褄をとっている自分はどんな星の下に生まれた女なのだろうか。幸せなのか不幸せなのか、お文はそれを知りたいと、ふと思った。

こんな一節を書かせたら宇江佐真理は本当にうまくて唸ってしまう。この後、落語の『明烏』よろしく、お文は「あのとき、あちらを選んでいたら・・・」という世界の夢(?)を見てしまうのだが、醒めて現実に戻ったところで私は思わず咽んでしまった。

「おかしゃん。痛いの? 痛いの痛いの飛んでいけ!」
息子の伊与太がお文の頬に両手をあてる。小さな温かい手だ。寝巻きの前がはだけ、腹掛けが見えている。
「伊与太!」
お文は悲鳴のような声をあげ、伊与太を抱きしめた。どうして伊与太を忘れていたのだろう。お文の頭の中から伊与太のことがすっぽり抜けていた。

お文の見た夢に、なぜか伊与太は存在しなかったのである。子どもがかわいくて愛しくてたまらないからこそ、自分の無意識下にその子がいないことに激しく動揺し、罪悪感のようなものをおぼえる。そして、「いま、ここ」のかけがえのなさを再認識する。そんな気持ちがしみ入ってくるシーンなんだけれど、これを、まるでわが事のように思って読んでいる自分にも、お文たちと同じく、時が流れているのだなと思った。

ここ数作、伊三次とお文を食うかという勢いで登場している龍之進たち“八丁堀純情派”の面々を、作者は、自分の息子が少年だったころの仲間たちを思い浮かべながら書いているという。あと10年かそこらもしたら、それらのシーンもまた違った感慨で読むのだろうか・・・。

それぞれの山や谷を越えながら生きてゆくおなじみの登場人物たちを、ものかげからそっと見守るように、時には自分を投影しながら読むことのできるシリーズがあるというのは、すてきなことだ。