ONE

そこここで、桜が満開になっている。こんな春でも花は咲くんだなあ、と思う。被災した人々も、花を見ることはあるだろうか。その一瞬、ほっとしたり、なにかあたたかな気持ちになるだろうか? それとも、花を見ても悲しみがつのるばかりだろうか?

きっといろんな人がいるだろうな、と思う。被災地、とか、被災者、とか一言でくくることはできないのだ。

特にひとりで子どもの寝顔を見ているときなんか、震災のことを思って泣けてしょうがないことがしばしばだ。ここ福岡では、もちろん誰もが震災のことは胸にあるだろうが、ことさらに口に出したりはせずに日常が営まれているように見えるから、なんだか自分がやたら弱い人間のような気がしてくる。

でも、私は乳児を育てている母親だ。小さな子どもが、親というものを(たとえどれほど未熟な親であっても!)どんなに必要としているか、毎日、肌で感じている。私の姿が見えなくなると必死に探し、おっぱいをくわえながら眠るのをあたりまえにしている我が子。それと同じような、いとけない子たちが、数多く被災しているのだと思うと、泣かずにいられるだろうか? 

みんなが自分にできることを一生懸命にするのが、今、復興へのいちばんの近道、という。花を売るのが仕事の人は花を売り、歌を歌うのが仕事の人は歌を歌う。動ける者まで停滞してしまうのは良くないと。ならば母親たる私は、おのれの子を育てるべきなのだろう。でも、同時に、遠くにいる子どもたちを思って泣くのもまた、当たり前ではないか。そんな人間がいても良くはないか。

いっぽうで、やはり自分の暮らしを第一に考えていることに変わりはなく、震災後にバラエティ番組が再開されたときには正直ほっとしたし、紙おむつやレトルト食品が品薄になっているのを見たり、今日の風向きでは放射性物質が福岡まで届くだろうといった予報に接すると狼狽したりする。全体的には、おおむね平和に、楽しく暮らしている。勝手なもんだなと我ながら思う。こんなもんだよなとも思う。

がんばろうとか一つになろうとか、あるいは具体的にああしようこうしようとか。今、世の中はそんな励ましや提言であふれている。それらはほとんどが真摯なことばで、尊く、頼もしく感じるのだが、ときどき、少し息苦しい。

ひとりの人間の中にもムラがあり、矛盾がある。当然、違う人間ならば感じ方にも違いがある。被災した人も、被災の程度もそれぞれならば、それによって受けられたダメージもそれぞれ。というか、まずもって、被災した人は、もうじゅうぶん頑張らざるを得ない状態にあるんだから、がんばろうなんて簡単に言えないよね。

「エア被災」だなんて言葉をネットで見かけて、自嘲的な色合いを帯びた語彙をうまいことつくるなと妙に感心してしまった。実際には被災していない人間がふさぎこんでしまうのは確かに考えものかもしれないけど、みんながみんな、強い人間ではない。傷つき方も立ち直り方も一様ではない。あるいは逆に、たとえば自分の目の前の仕事が大変すぎて、とても震災のことまで頭がまわらないという人もいるだろう。

あれはああするべきなのよ、とか、それはよくないとか、なんとなく決めつけられるように感じられる雰囲気が、私はきっと苦手なんだろうと思う。通り一辺倒のマスコミのコメントとかも。そういうのを浴び続けるのは、私には、よくない。花見は自粛すべしとかさー、なんでオマエに言われないかんの。私は私の感じ方で、私のスピードで生活を続ける。そのことをまずは肯定しようと思う。それはまた、他者を肯定することにもつながるわけだし。

ってなわけで、タイトルはリップスライムです。わたし、この歌、世の中の2周回遅れくらいで好きになったんよねえ。