『銀座開化おもかげ草紙』松井今朝子

銀座開化おもかげ草紙 (新潮文庫)

銀座開化おもかげ草紙 (新潮文庫)

初めて読んだのは3年ほど前で、そのとき既に自分はこういう本を読むのに不足のない程度に成熟した人間だと自負していたけど、今回、再読してみたらまるで印象が違ったことにびっくりした。

当時、松井今朝子の著作自体が初めてだったのだが、一読後、なんと「ふーん。数ある時代小説の中のひとつだな。特筆すべきものは無し。」などという印象をもっていた私である。甘かった。あるいは、“本を読む力”って、30を過ぎてもまだまだ伸びるんだ、って喜んでいいのか?

歴史でなく市井を描く時代小説は、その9割以上が天下泰平の江戸時代が舞台だが、これはタイトルのとおり、明治初期の物語。煉瓦造りの建物、ガス灯、紅茶に珈琲。解禁されたキリスト教。自由で新しい風が吹き始めたのと同時に、武士は職や名誉を失い、華やかな銀座の表通りを一歩入れば、昔と同じ長屋が並ぶ。

その筆致は「あんた、この時代を生きてたんじゃないの?」と言いたくなるほど見事。文間から文明開化の街並や人々が鮮やかに立ちのぼってくる。資料を読み込み、咀嚼して、それを物語の中でひけらかすのではなく、自然に溶け込ませて説得力をかもしだすのは、小説家としての高い力量だろう。

毎日のブログで政治・経済・社会など現代の時事問題にも鋭く切り込んでいる著者の、“時代を見る目”も遺憾なく発揮されている。時流に乗る者、乗りそこねる者、はじめから背を向ける者・・・。どんな人間も、なんらかの形で「その時代の風」を身に受けて生きるのだということをまざまざと思い知らされる。

同時に、どんな時代であっても人間の喜怒哀楽、生老病死っていうのは変わらないということも。そういうことへの感じ入り方が、以前の比ではなかった今回の再読だ。新しい世の中に染まりきるほど若くなく、かといって旧い時代を懐かしむばかりというには老いていない30歳の主人公、久保田宗八郎の感覚が身に沁みてくるのは、私が社会で仕事をすることからいったん退いているせいだろうか。

3部作で西南戦争までが書かれるらしいが、これは意欲作というよりは野心作というのがふさわしいように思う。次作『果ての花火』はもう入手済みなんだけど、ちょっと一服してから手をつけよう・・・。普通の時代小説のようにお茶受けがわりに読むには、今の私にはちょっとハードだ、精神的に。