『昨日・今日・明日』曽我部恵一

昨日・今日・明日 (ちくま文庫)

昨日・今日・明日 (ちくま文庫)

産後はしばらく本屋参りもままならないだろうということで、妊娠後期に入ってから、ちびちびと面白そうな本を買い集めては積んでいた。歴史関係の本、時代小説、育児エッセイ、短編集などジャンルはいろいろで15冊ほど。その中から選んで、産後、最初に読んだ本がこれ。

読書も長年続けていると、「今の自分」にしっくりくるものを選ぶ、選球眼ならぬ“選本眼”とでもいうべき能力が発達するらしい。マタニティ・ブルーのピークを越えたばかりの時期にはまさにおあつらえ向きといったところ。きっと忘れられない本になる。

曽我部恵一サニーデイ・サービスの、『愛と笑いの夜』とかそれぐらいの時期に「月刊カドカワ」で書いていた連載を中心にまとめた本。1997年あたりだ。まさにそのころサニーデイ・サービスを聴いていた私は18歳。曽我部さんは26歳。お互い若かったね(?)。

やっぱり楽器というのは見た目が全てだな。ぼくはこのところ機能性を重視して楽器を使っていたが、そんなのはもうよそう。素敵なデザインと色を持ったギターから悪い音が出るはずがないのである。
そんなわけでここ数日は街へ出ても中古楽器屋ばかり覗いている。ぼくが生まれる何年も何十年も前に作られたギターがたくさん飾ってあって、見ているだけで惚れ惚れしてくる。そんなギターは木にニスがしみこんでいて飴色に変色してしまっているが、その独特の美しい木目を見れば、誰だってそこに年月の流れを見つけることができるに違いない。

初めて読む曽我部さんの文章は「彼らしい」感じ。なんかこう、いい空気感を孕んでいるようで、彼の音楽と同じだ。

はっぴいえんどとのエピソードや、再発CDに寄せて書いたライナーノーツたち、アルバムジャケットについての放言など、いずれも敬愛やユーモアあふれる筆致。あたりまえだけど彼の生活は音楽であふれている。好きな音楽の仕事をして、コーヒーを飲んで映画を見て、旅に出て。彼の日常はなんだかとても素敵で、ある意味“理想的”に思える。

でも、ほんとはわかってる。生活ってそんなもんじゃない。このころの曽我部さんにだって、いろいろあったに違いない。いろいろの中身を邪推するまでもなく、生活って、誰のどんなものでも、いろいろあるもんなのだ。ぐだぐだとつまらないこととか、瓦を割りたくなるくらい怒れることとか、穴を掘って逃げ出したいこととか。ただ、彼にはとても好きなものがあって、それを取り出して書いただけなのだ。でも、好きなものがあるってすばらしい。いろいろある生活を、好きなものの空気で染めることができるってことは、いつどんなときでも人生を楽しんだり愛おしんだりできるってことだと思う。

どうせ、過ぎない「今日」はない。明日には「今日」は「昨日」になる。心配したところで、全てはそういうふうに進む。
ぼくはただ、くだらない様々なことに夢中になったり、意味のない旅をしてみたり、ささいなことに傷ついたりして「今日」を生き続けるだろう。
これはいわゆる刹那的で破滅的な人生じゃなく、どちらかというと建設的で健全な生き方である。   (あとがきより)

子どもを産んで幸せの絶頂みたいな気持ちばかりかと思いきや、なぜか何かを、それも多くの何かを失ったような気もしていたマタニティ・ブルーを引きずった時期に、好きなものをまといながら軽やかに歩いているみたいな曽我部さんの本は、どんな「ハッピー・アドバイス」的なハウツー本よりも、よほど私を慰め励ましてくれた。

しかも、この本には、今回(2009年)の文庫化に寄せて加筆された部分があって、38歳になり、今や3児の父でもある曽我部さんが、20代後半だった連載時の自分に向けて書いている文章がまたいいのだ。本を開き、最初に『文庫版まえがき(を書こうとして感じた2,3の事柄)』と題された決して長くない文章を読んだだけで、すでに心洗われた。「もうこの本、絶対いいに違いない!」と確信したもん。

それにしても不思議なのは、この本がちくま文庫から文庫化されていること。単行本のときは当然、角川だったんだろう。文庫化の際に別の版元から出るのはよくある話だが、なぜにわざわざちくまなのか? ちくま大好きな私だけど、その唯一の欠点は、角川とか文春とか新潮なんかのメジャーどころと比べて、高いんだよね、値段が・・・。でも、760円の価値なんて余裕でありあり!の本でした。