『ミカドの淑女(おんな)』林真理子

ミカドの淑女(おんな) (新潮文庫)

ミカドの淑女(おんな) (新潮文庫)

今回初めて読んだのだが、この小説が最初に出版されたころ、けっこう話題になってたなぁーという記憶がある。奥付を見ると、平成2年に単行本出版とのこと。20年前か。確かに、そのころ私は小学生だった。

そのころバブルは既に弾けていたのか、そうだとしてもまだ残り香のように、トレンディドラマみたいなものも流行っていたと思う。私にとっては林真理子もその中の一部だった。人気女流作家でありながら、テレビや雑誌への露出が多かった。それも、ファッションだとか、結婚だとかが取り沙汰されるのがしばしばで、その取り上げ方も、けして美人ではない彼女を、弄るとまではいかずとも多少面白がるようなスタンスのものが多かったような気がする。そして、彼女自身、それを承知のうえで、それでもマスコミとの蜜月を楽しんでいるように見えた。

清く正しい文学少女だった私(嘘)には、なんだか、軽佻浮薄に映っていたのだ。そのころそんな言葉は知らなかったと思うが。

そのあたりで出版されたこの小説が、当時、世間でどういう取り上げられ方をされていたのかは覚えていない。ただ、出版されたこと、この鮮やかな赤い背景と古めかしい明朝体の題字の表紙は、子どものころから確実に知っていたから、いろんなところでピックアップされていたんだろうと思う。ただ、これを手に取るには、私はやや子どもすぎた。

三十路を越えて、なぜかふと思い出して読んでみたくなり、図書館で予約して借りた。いかにも古い新潮文庫らしく、小さな活字の並ぶぺらぺらの紙は既に黄ばんで、表紙をめくると誰かが飲み物をこぼしたらしく大きな染みが広がり、だいぶあとのページにまでしみこんでいた。

新刊のころから知っているのに、今やこれだもんなーいうと少し憂鬱な気分は、読み始めて最初の10ページくらいで一気に吹き飛んだ。「こ、これは面白い! 絶対最後まで面白い!」みたいな確信に襲われて、あとはずっと息をのみながら読んでいるような感じだった。

いわゆる「下田歌子事件」を題材にした作品。社会主義幸徳秋水が主宰する平民新聞の連載「妖婦下田歌子」を中心に据えて原文を多く引いている。貧しい武士の娘から明治の宮廷に女官として出仕し、皇后の寵愛を受けた歌子の存在に翻弄されるかのようなさまざまな人々。

それは、明治の大老伊藤博文であり山縣有朋であり、また皇太子妃や明治帝の内親王であり、その母親である帝の側室であり、それに仕える女官であり、歌子と同郷の怪しげな祈祷師や若き日に彼女にほだされた国一級の医学博士であり、軍人・乃木希典である。そしてその頂点に帝と皇后という至高の存在があるわけだが、林真理子は、このふたりについても想像の手をゆるめない。20年前ってもうこういうことが書ける時代だったのか、と、そこにもちょっと感心した。

男vs女、古きものvs新しきもの、後宮vs政治・軍隊、やんごとなき身分の人々vs平民・・・絡み合うさまざまな対立項を垣間見せながら物語は展開する。それぞれの断絶の深さをじゅうぶんに読み取りつつ、しかし読み手はそれに絶望するひまもなく、くるくると踊らされるように読みすすんでいく。

たどりつく終着点は史実のとおり一種冷酷無比なものだが、周到に組み立てられたプロセスを見せられてきた私たちは納得せざるを得ない。読み手以上に翻弄されているのは登場人物たちであり、それはこの物語の中心に立って人々の心をざわめかせる歌子や、大日本帝国を統べる帝でさえも例外ではない。誰もが、交差する対立軸のどこかに位置し、そして、この場合は「明治」であるが、固有の時代の中に生きている。そこから逃れられるはずがないのだ。

こんな物語を、ロマンチックにでもなくセンチメンタルにでもなく、豪華絢爛にというわけでもなく、悲愴感も漂わせず、どちらかというと「淡々と」、しかしものすごい集中力を感じさせる筆致で書いていることになんか感動をおぼえた。あんな時代に、マスコミに取材されてチャラチャラしながら(子どもの偏見)、30代半ばでこんなものを書いていたのか。彼女には確か、のちの作品に「女文士」というタイトルのものがあるんだが、この「ミカドの淑女(おんな)」を読み終わったときに私の頭に思い浮かんだのは、「林真理子ってまさに“女文士”だなー」という感想だった。