『日本国憲法の200日』(半藤一利)その2

日本国憲法の二〇〇日 (文春文庫)

日本国憲法の二〇〇日 (文春文庫)

無垢な小学校時代に、どぎついまでの平和教育の洗礼を受けて硬直していた私。
のちには、歴史好きの性質によって、戦争に至るまでの過程について、自ら欲して、あるていど身につけたものの、戦後についてはほとんど無知だった。

戦後というのは、このあいだ流行ったような、「3丁目の夕日」に代表されるような、高度経済成長が始まる昭和30年代ではなくて、終戦直後の数年のことね。

食糧危機に代表される困窮、「国体護持」とか「公職追放」とか「一億総懺悔」とかいうこと。そもそも、終戦後6年間にわたって、日本が連合国軍(主にアメリカ)に占領されていたという事実。「鬼畜米英」とか言ってた大人たちが、終戦後、一転したことで、当時の子どもたち(いわゆる、石原都知事世代の人たちね)が、いかに混乱の少年期を送ったかということも。言葉として、概念としては知っていた。

それでも、この本のライブ感は凄かったなあ。あらためて、この時代のこともよくよく知りたいと思った。知ろうとしなければ、今や、およそ想像もつかないほどの歴史だ。日本の現代的繁栄(といっていいのかな)は、戦争に負けてから始まったものではあるが、敗戦イコール、他国に占領されるということ、それがどういうことなのか? 実際、すさまじいものです。

私は大学生のころ、坂口安吾の『堕落論』を読んで以来、『無頼派』を気取っているが(嘘)、あれも戦後まもなく発表された作品。平成の世のモラトリアム学生と、当時の人々とでは、そのインパクトはまるで違ったんだろうなあと思う。

昭和20年3月10日の東京大空襲から、日本国憲法の発布に至るまでのいわゆる“表の歴史”を丹念に追った文章はもとより、この作品でとても興味深いのは、そのころ中学生だった筆者が、多感な少年期に時代をどう見ていたか、という体験談であり、また、当時の文人や知識人が残した日記を多く引いていることにもある。さらに、世論についてなど、庶民の目でみた終戦直後についての多くの言及も、この本の価値を高めていると思う。

当時、東大の医学生であった、のちの怪奇作家(?)山田風太郎がしたためた『戦中派不戦日記』より

解剖実習室に屍体二十余来る。すべて上野駅頭の餓死者なり。それでもまだ『女』を探して失笑す。
一様に硬口蓋見ゆるばかりに口ひらき、穴のごとくくぼみたる眼窩の奥にどろんと白ちゃけたる眼球、腐魚のごとく乾きたる光、はなてり。肋骨そり返りて、薄き腹に急坂をなす。
手は無理に合掌させたるもののごとく、手首、紐にてくくられぬ。
指はみ出たる地下足袋、糸の目見ゆるゲートル、ぼろぼろの作業服。悲惨の具象。

戦時中ではなく、終戦後の上野駅周辺の風景。
そのころ、焼け跡だらけの町には、ラジオが『リンゴの唄』を流し続けた。復興の象徴とされる唄だ。

歌った並木路子は、松竹少女歌劇団の新人である。
3月10日の東京大空襲で、みずからも火に追われて隅田川に飛び込む羽目になり、危うく溺れるところを救助されたのであるという。一緒に川に飛び込んだ母親は遺体となって浮かんだ。
父も南方で殉職死、次の兄は千島列島で戦死。
「並木くん、君に明るく歌えというのはつらいのだが・・・」と、作曲家の万城目正がいったとか。

また、終戦後、NHKのラジオ番組として始まった『街頭録音』で、有楽町ガード下で収録され流された声。

そりゃ、パンパンは悪いわ。
だけど、身よりもなく職もない私たちは、どうして生きていけばいいの。好きでこんな商売してる人なんて、いったい何人いると思うの。
苦労してカタギになっても、世間の人は、あいつはパンパンだった、って、うしろ指をさすじゃないの。
今だって、ここの娘を何人もカタギにして、何人も何人も世間へ送り出したわよ。それがみんな、いじめられ、追い立てられて、またこのガード下に戻ってくるじゃないの。
世間なんて、いい加減、私たちを馬鹿にしきってるのよ

ガードを渡る電車の轟音に負けまいと叫んだ、この「お時さん」という、そのあたりのパンパンのリーダー格であった女性は、このとき22歳だったという。

・・・ていうか、「パンパン」っていう言葉さえ、若い人には聞いたことのない言葉なのかもね。それが、現代日本の繁栄、平和の象徴でもあるとも、思うけれども。